謹んで新春のお慶びを申し上げます。

旧年中は、私の発信に御着目をいただき、まことに有難うございました。

俳人の中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは昭和6(1931)年でした。草田男は明治34(1901)年生まれですから、実際に明治という時代を生きたのは十年ちょっとですが、大正を経て昭和という時代を迎えた草田男が、しみじみ明治は遠くなったなあと詠じた一句に心惹かれます。

自分の生きた時代への愛おしさ…。もっとも、明治末年から昭和6年の間は19年ですから、「遠くなりにけり」という感覚は内面的なもので、むしろ「オンリー・イエスタデイ」と感じる人もいるでしょう。

さて、平成という時代も31年目に入り、その御代代わりを国民が事前に知らされています。そのことの我が国の歴史に照らしての是非は本稿では措きます。

ただ実感として、私は「昭和」をより懐かしむようになっています。昭和は遠くなりにけり…と。たしかに感傷的な懐古ですが、懐かしむだけでなく、あの時代に繋がる日本人でありたいとも強く思っています。

「同時代というものをほぼ百年だと思っている」と語ったのは、コラムニスト山本夏彦です。彼は、〈私たちは大正十二年の震災と昭和二十年の戦災で過去にさかのぼる手がかりのすべてを失った。残ったのは言葉だけである〉といい、大東亜戦争後長く猖獗(しょうけつ)をきわめた戦前日本暗黒史観ともいうべき言説に異を立て、〝誰か「戦前」を知らないか〟と軽妙洒脱にその嘘を暴いて見せました。昭和30年代生まれの私は、夏彦翁に多くの言葉を教えられました。

戦後生まれの日本人の多くが、戦後の言語空間は戦前と違って最大の自由が保障されていると思い込んできました。現行憲法(第21条)にも「一、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。二、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」とあります。

しかし、この憲法こそが、「日本国が再び米国の脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」という米国の初期対日占領方針における「究極の目的」を達するための装置でした。

この憲法の中で戦後の日本の言語、情報空間は、占領目的の実施と浸透に好都合となるよう検閲、統制され規定されました。その中で大東亜戦争も、八紘一宇も、大東亜共栄圏も、世界の平和に反する禁句にされ、多くの日本人の意識から消し去られていったわけです。

かつて江藤淳が指摘したように、アメリカがつくった言語空間の仕組みは、彼らからすればすべて見通せる素通しのガラス張りで、日本側から見ると「日本国憲法」に裏打ちされた鏡張りの部屋になっています。そこでは、国際社会を律する葛藤の構造も実態も見えず、いつも〝平和〟と〝民主主義〟という記号を押し戴いている自分自身の姿しか見えないようになっている。

普遍的理念として平和や民主主義を語っているつもりでも、現実にはアメリカの利益に重なる(脅威とならない)構造になっていることに気づかない。戦争放棄と平和主義を謳った憲法9条が、実際の国防面から見れば日米安保条約と不離の関係になっていることを、「安保ハンタイ」と叫ぶ人々は認識しているか。保守派もそれが日本防衛という建前と同時に、日本に対するビンの蓋としても機能していることを看過あるいは受忍すべきものとしてきたのではないか。

戦後の言語空間における「民意」なるものは、鏡張りの部屋の中の価値観しか反映せず、事の軽重をわきまえることがない。集団的自衛権の行使容認がなぜ必要なのかを考える前に、「徴兵制になる」「戦争に巻き込まれる」といった、ある意図をもって扇動する人々の論理性のない情緒的な言葉に乗せられ、マスコミがそれを言論の自由をかざして増幅し、有無を言わせぬ「民意」として形成拡大して政治を怯ませ、後退させてゆく。

そうなれば、国民は「大事」の存在を気づくことなく、日本の自主性、独立性の確立という命題から常に隔離されることになります。平和や民主主義、人権尊重を叫ぶほどに、その実日本人は思考停止に陥り、自ら起つ足を弱めていくという構造が戦後の言語空間には組み込まれていると私は考えます。

そして、私たちはこれまでその中で当たり前に過ごしてきたのです。経済発展し、この70余年の間、たしかに砲弾の飛び交う戦争の現場に関わることなく過ごしてきたことで「戦後」を当たり前とし、それを保持する言論を支持し、「戦前」は忘却すべき悪夢のように捨て置いてきた。

もはや私たちには「戦前」が見えない、戦前の日本人の声が聴こえない。言葉がわからない。それでも構わないのだ。個々人に濃淡の差はあっても、総体としての日本人はそうやって戦後を過ごしてきた。この状態が続けば、日本を自主独立の国にしない、という73年前に企図したアメリカによる思想改造は完結する――。

戦前までの日本は、拙いという批判は免れないにせよ、とにかく国家意志を示し苦闘を重ねました。そして個々の日本人にはそれを支える志や気概があった。自身海軍報道班員として徴用された歴史作家山岡荘八は大東戦争の開戦に至る経緯をこう綴っています。

〈思えば長い間の日米関係であった。

 嘉永六年(一八五三年)の六月三日。ペルリ提督が浦賀にやって来て、日本人をあの幕末維新の大波に追い込んでから約百年、とにかく日本人は彼らを好意ある先進国として兄事もし尊敬もして来ていた。歴代のアメリカ大統領もまた、彼らが建国の理想として来た自由と正義を抛棄してまで、日本人の信頼を泥土に任すような過ちはあえてしなかった。

 ところが、その日本が、人口の過剰になやみ、生きる道を満州の荒野に求めていったことから、はしなくも彼らは、彼らの信奉する「自由と正義」が、白色人種のみの間に通用するもので、有色人種にとっては全く無縁の空語であったことを示して、この日、この時、この反抗を激発してしまった。

 したがってこれは一米国と、一日本の戦いと云うよりも、ヨーロッパ文明の内包する、「自由と正義」の利己と矛盾が、はじめて大規模な近代装備を持つ、有色人種の反撃を招き寄せたという、人類全体の歴史の転換期に入っていく「夜明けの風」であったのだ…〉(『小説太平洋戦争』昭和40~46年)

この述懐は、明治生まれの作家の奥深い実感でしょう。過酷な帝国主義が国際社会の常識だった時代に開国した日本がどれほどの辛酸に耐え、列強との不平等を克服し、「独立」を全うしようとしたか。今日的な価値観から父祖の苦闘を「国策を誤った侵略行為」などと決めつけ非難するのはたやすいことで、そこに私は、大東亜戦争の結果を知った上での、いわば歴史のカンニングペーパーを手にした者が、自らを一段高みに置いて断罪する傲岸不遜を感じます。

後生たる我々が「同時代」の戦争として大東亜戦争を人類史における「夜明けの風」と共感できるかどうか。そしてその共感の上に、真に必要な反省や教訓を導き出せるかどうか。

私は、そのためには占領軍がつくった鏡張りの部屋の外に通ずる父祖の言葉を、父祖の事績を、丹念に探し出すしかないと考えています。そして、それによって鏡張りの部屋を打ち壊し、外に出る――。

背負った物言いになりましたが、私の言論活動の目的はここにあります。

皆様の御健康と御多幸、邦家の彌榮を祈念するとともに、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

【上島嘉郎からのお知らせ】

●慰安婦問題、徴用工問題、日韓併合、竹島…日本人としてこれだけは知っておきたい

『韓国には言うべきことをキッチリ言おう!』(ワニブックスPLUS新書)

●大東亜戦争は無謀な戦争だったのか。定説や既成概念とは異なる発想、視点から再考する

『優位戦思考に学ぶ―大東亜戦争「失敗の本質」』(PHP研究所)

●日本文化チャンネル桜【Front Japan 桜】に出演しました。

・平成30年12月21日〈IWCの脱退と日本人の殺生観/北方領土問題~ロシアの主張に学べ/ゴーン再逮捕~日本人の他力本願と被害者意識/マティス米国防長官辞任〉

・平成30年12月26日〈沖縄県民投票~歴史を直視せよ/言葉を削り取ると時代が見えなくなる/トランプ大統領「チベット相互訪問法」に署名/IWC脱退 閣議決定〉

●靖國神社社報『靖國』(第760号/平成30年11月)に拙稿が掲載されました。

*ここにPDFを貼り付けていただければ。年が明けて可能な時からで結構です。