韓国の文喜相国会議長が3月27日付の韓国紙『ハンギョレ新聞』で慰安婦問題に関し、「誠意ある謝罪が最も重要だ。安倍首相、あるいは首相に準じた日本を象徴する国王(天皇)が元慰安婦に『ごめんなさい』とひとこと言えれば根本的な問題が解決されるという話だ」と述べたことはまだ記憶に新しいと思います。

文氏はさらに、日本とドイツを比較して「戦後、敗戦国であってもドイツが欧州のリーダーになったのは、すべての問題について謝罪し、現在も続けているからだ」と述べました。こうした文氏の発言に対し、菅義偉官房長官は「韓国国会議長の一連の発言は甚だしく不適切で、コメントする気にもならない」と会見で不快感を示しましたが、その後も文氏はどこ吹く風です。

事実関係でいえば、日本はこれまで加藤紘一官房長官、河野洋平官房長官、村山富市首相、菅直人首相らの談話にあるように歴代政権は度々謝罪し、元慰安婦個人に対し「アジア女性基金」を設立して見舞金を支給してきました。

また、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の四人の首相が「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省を申し上げます」という内容の手紙を渡しています。

韓国がこれまでの日本側の事実の積み上げを知らないはずはないのですが、とどのつまりは「韓国人の感情に従え」ということなのですね。しかし、私たちも御先祖の名誉がかかっていますから、事実でないことを謝罪はできません。

今回の文氏に限らず、韓国は何かと日独の比較を持ち出して、日本の不実を非難するのですが、そこには明らかな事実誤認や御都合主義があります。たとえば、1985年5月8日に当時の西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が国会で行った「荒れ野の四十年」という演説がよく引かれます。
過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる――というくだりが有名です。日本の新聞などでは、戦前の加害の歴史に目を閉ざすな、という文脈で使われますが、この演説はもっと複雑に構成されているのです。以下にそれを概説します(引用は『言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集』(永井清彦編訳/岩波現代文庫)より)。

5月8日は、1949年にドイツ基本法を議会が承認した日で、ヴァイツゼッカーは〈解放の日であることがはっきり〉してきたと述べました。

では、何からの解放であるか。〈ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放され〉、〈五月八日は心に刻むための日〉で、〈ことにドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人を思い浮かべます〉という。

ヴァイツゼッカーはその責任の所在をこう述べます。
〈この犯罪に手を下したのは少数です。……一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。……今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。〉

〈ドイツ人であるという理由だけで、粗布の質素な服を身にまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。〉

この「ドイツ人であるという理由だけで」を「日本人であるという理由だけで」と言い換えてみる、そう発言する自由が、今日の日本の政治家にあるでしょうか。恐らく「極めて不適切」「妄言」と批判に晒されるでしょう。

ヴァイツゼッカーはこの後、〈罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております〉と語り、〈過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります〉と述べます。

しかしながら、「過去」のなかには〈災いへの道を推進したのはヒトラーで、大衆の狂気を生み出し、これを利用しました。脆弱なワイマール期の民主制にはヒトラーを阻止する力がありませんでした。そしてまたヨーロッパの西側諸国も無力であり、そのことによってこの宿命的な事態の推移に加担したのですが、(イギリスの元首相)チャーチルはこれを「悪意はないが無実とはいいかねる」と評して〉いることも含まれるのです。

ヴァイツゼッカーはさらに、〈苦しめられ、隷属させられ、汚辱にまみれた民族が最後に一つだけ残りました。ほかでもないドイツ民族であります〉と自らもナチスの被害者であったと述べています。

われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。……ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

〈道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう〉にというのは、今日的価値観を絶対的な高みに置いて過去の人々を断罪することなく、歴史の真実は一方の感情や主観によってのみ描き出されるものではないという訴えでしょう。

「公平」は、戦争当事国それぞれの立場に目配りすることです。〈われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません〉というのは、まさに今日の人類が戒めねばならぬことでしょう。進歩主義の無謬信仰は恐ろしいものです。

ワイツゼッカーの演説は次のように結ばれます。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日五月八日にさいし、及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか。

〈正義については内面の規範に従〉うというのは、人間の心の自由を守るものです。そして、〈及ぶかぎり真実を直視〉するならば、私たちは韓国が主張する「従軍慰安婦強制連行」には「否」と言わざるを得ないでのす。

ヴァイツゼッカー演説は、ドイツ民族の「集団の罪」を認めたものではありません。彼は「個人の罪」であるということを明確に断言しているのです。これが今日に至るまで変わらぬドイツ人の立場です。戦争中のナチス体制と現在のドイツは別であるという前提で、「ナチスから解放された」という以上、いまのドイツ国民はナチスという体制の推進者でも、協力者でも、参加者でもなく、被害者であったということなのです。

ドイツは、ユダヤ人大虐殺の犠牲者への補償は行いましたが、日本のような国家としての戦時補償は行っていません。しかも日本は、ナチスのように組織的に特定の人種に対する大規模な迫害・抹殺行為を行ってもいなければ、戦時中の韓国人は「日本国民」だったのですから、彼らが被害者だったと主張する日本の政策は、同じく私たちの父祖も背負ったことなのです。

時代の実相や事実関係が「直視」されず、日本は酷いと言い募られても、それに諾々と従うことができないのは当然でしょう。

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