令和5年が明けて半月が過ぎました。
中国武漢から発生した新型コロナウイルスの災禍は未だ収束に至らず、昨年2月に始まったロシアのウクライナへの軍事侵攻も停戦の兆しは見えません。戦後の安全保障の枠組みが揺らぐ中、我が国は現下の東アジア情勢にも鑑み「安保3文書」を改定し、防衛力の増強を図ることに舵を切りました。
多事多難なりける令和の世かな、と嘆息せざるを得ませんが、戦後体制の欺瞞を直視することなく、「平和の毒」をそうと自覚しないまま長く惰眠を貪ってきた我が国が、独立国とはなんぞやということに覚醒する時機が否応なしに到来したと云えます。
昨年4月に書いて途中だった標題について、筆を執ることが出来なかった怠惰をお詫びするとともに、我が国民が内包する本質的な問題を改めて指摘したいと思います。
「戦いを放棄すれば命は救われるのか」という問いは、ロシアのウクライナ侵攻に関し、「戦う一択ではダメだ!」とか「(ウクライナ国民は)抵抗せず国外へ避難すべき」とかの発言を繰り返す橋下徹氏やテリー伊藤氏らへの反問として書き進めました。
前回、早稲田大学教授の有馬哲夫さんの『日本人はなぜ自虐的になったのか』(新潮新書)を引いて、世界の歴史を振り返れば〈戦争準備を怠った国ほど戦争に巻き込まれ、ひどい目に遭って〉いること、それを知っている多くの国の人々は、平和を祈りつつも〈敵国が付け入ることがないよう、戦争の抑止になるよう、できるだけ強力な軍事力を手に入れたい〉と考えている、それが「普通の国」であると述べました。
では、そうした「普通の国」と日本の違いは何か。
有馬さんの答えは、〈「自虐バイアス」と「敗戦ギルト」があるか、ないかの違い〉というものです。
「自虐バイアス」と「敗戦ギルト」は、大東亜戦争後の連合国最高司令官総司令部(GHQ)による占領政策とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)によって、戦後日本人の思考様式に組み込まれたものです。
ちなみに、WGIPを「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」と訳したのは江藤淳で、日本側から占領史を語る上での適訳だと私は考えています。
近代の戦争は、敵国を軍事的に敗北させることだけでは終わりません。イラク戦争で米国のブッシュ大統領が「サダム・フセインを打倒してイラクを民主的な国にする」と宣言したように、軍事戦に続いて政治戦と心理戦を行うことで、敵国に対し将来にわたる脅威を取り除き、制御可能とする体制を築くことをめざします。
大東亜戦争後の日本を占領した米国が達成すべき最重要目標は、〈日本人の心を支配し、「戦争能力」を奪い、「2度とアメリカに立ち向かうことがないようにする」ことでした。〉
「WGIP」が心理戦、「民主化」の名のもとに行われた「五大改革」が政治戦です。これらの詳細については、前掲の有馬さんの著作に明らかにされているので御一読を乞うものですが、「自虐バイアス」と「敗戦ギルト」については端的に紹介しておきます。
前者は〈「先の大戦とその周辺の時期に日本のしたことはすべて誤りで、悪いことで、アメリカをはじめとする連合国のしたことはすべて正しい」という偏向した見方〉で、後者は〈「日本は悪い戦争をしたから負けた。だから、アメリカをはじめとした旧連合国のいうことが無理筋でも、歴史的事実とは違っていても、罰として受け入れるしかない」という考え方〉です。
戦後日本は、「自虐バイアス」と「敗戦ギルト」によって、自らの精神や思考に枷(かせ)をはめ、独立国のなんたるかを忘れても、それによって恥ずかしくとも、後ろめたくとも思う必要がないように、「平和主義」であると瞞着(まんちゃく)してきました。戦いを忌避することが平和に通じるという姿勢は、国防における「専守防衛」という欺瞞、具体的には反撃能力(敵基地攻撃能力)の否定につながって、これはいまも国民の多数派ではないかと思います。
「独立」の意志を堅持すること、軍事力を持つことは、即好戦的であることを意味しません。独立国にとって、戦う覚悟を持つこと、準備することは必須です。それを発動するかどうかは相手と国際情勢によります。
前回触れた永世中立国スイスの決意は、再論ながら「戦争を防ぐために戦争の準備を怠ってはならない」というもので、スイスの平和は、一定の軍事力と一旦緩急あれば一般国民も銃を手に起つという意志で保たれています。
スイスはなぜ第二次世界大戦中でも中立を守り通せたのか。スイスは緊迫する情勢下、「侵略を受けたときは徹底して戦い、絶対に降伏してはならない」という法律を制定し、仏独から戦闘機を大量購入し、さらにライセンス生産によって航空戦力を強化します。
開戦と同時にスイスは「武装中立」を宣言、侵略者には「焦土作戦」で臨むことを決めます。侵入してくる他国軍隊とは徹底的に戦い、領空侵犯する航空機は連合国、枢軸国を問わず撃墜する。スイス政府は最大で八十五万の国民を動員し、スイス空軍は約200機を失いながら、連合国側・枢軸国側を問わず領空侵犯機を迎撃しました。欧州全土が戦火に焼かれた戦争で、スイスはその国土を「戦う」ことによって守り抜いたわけです。
こうした歴史を持つスイスは大戦後も『民間防衛』(邦訳・原書房)という手引書を国内の全家庭に配布し、武器の備えと一定期間の軍事訓練を国民に課しています。
『民間防衛』の〈まえがき〉でスイス連邦法務警察長官はこう国民に語りかけます。
〈国土の防衛は、わがスイスに昔から伝わっている伝統であり、わが連邦の存在そのものにかかわるものです。そのため、武器をとり得るすべての国民によって組織され、近代戦用に装備された強力な軍のみが、侵略者の意図をくじき得るのであり、これによって、われわれにとって最も大きな財産である自由と独立が保障されるのです。(略)
われわれの最も大きな基本的財産は、自由と独立です。これを守るために、われわれは、すべての民間の力と軍事力を一つに合わせねばなりません。しかし、このような侵略に対する抵抗の力というものは、即席にできるものではありません。(略)
われわれは、脅威に、いま、直面しているわけではありません。この本は危急を告げるものではありません。しかしながら、国民に対して、責任を持つ政府当局の義務は、最悪の事態を予測し、準備することです。軍は、背後の国民の士気がぐらついていては頑張ることができません。(略)
一方、戦争は武器だけで行われるものではなくなりました。戦争は心理的なものになりました。作戦実施のずっと以前から行われる陰険で周到な宣伝は、国民の抵抗意思をくじくことができます。精神――心がくじけたときに、腕力があったとて何の役に立つでしょうか。反対に、全国民が、決意を固めた指導者のまわりに団結したとき、だれが彼らを屈服させることができましょうか。
民間国土防衛は、まず意識に目ざめることから始まります。われわれは生き抜くことを望むのかどうか。――国土の防衛は、もはや軍にだけ頼るわけにはいきません。(後略)〉
これが国防における現実感覚というもので、戦後多くの日本人が失ってしまった感覚でしょう。
『民間防衛』の〈訳者あとがき〉は概略こう述べます。
「戦後の日本人が思い浮かべるスイスのイメージは、美しいアルプスを見上げる牧場であり、羊飼いの少年少女の恋物語であり、何より戦乱の歴史を繰り拡げてきたヨーロッパにおいて、百五十年以上にわたって平和を享受してきた国であった。
このイメージ自体は必ずしも誤りではない。『アルプスの少女ハイジ』の世界はたしかにある。しかし、戦後の日本人がこの平和愛好国スイスを語るとき、なぜかスイス国民の平和を守るための覚悟と努力、国民一人一人の大変な負担とこれに耐えぬく気迫という現実には目をつぶり、ともすれば、かかる努力によってはじめて開花した平和という美しい花にのみ気をとられてきた。」
まさに戦後の日本は、現行憲法前文にある「平和を愛する諸国民」を自明に信じ、〈平和を守るための覚悟と努力、国民一人一人の大変な負担とこれに耐えぬく気迫という現実には目をつぶり〉、〈平和という美しい花にのみ気をとられてきた〉わけです。
ソ連崩壊後に独立したウクライナも、国連安保理常任理事国(米英露)による領土保全と政治的独立の保障(1994年、ブタペスト覚書。仏中両国も別文書でウクライナに安全保障を提供)を以て、ソ連時代に配備された約1900発の核弾頭の撤去に応じました。
ところが、当のロシアによって「ブタペスト覚書」は反故にされ、2014年3月、国連はウクライナ領土の一体性を保障したにも拘わらず、クリミア半島は併合され今日の事態につながっています。
戦うことを放棄すれば、相手は寛容な態度で接してくれるはずだ、というのは願望です。今もウクライナ国民がロシアの侵攻に抵抗し続けているのは、矛を収めても自らが保証されないと痛感しているからです。ロシアによってさらに蹂躙される、大きな犠牲を払うことになると考えているからです。
翻って私が思い出すのは、平成27年(2015)、安倍政権が進めていた安全保障関連法案への反対運動の一景です。SEALDsという若者たちのグループが左派の運動家やマスメディアに持て囃されたことを覚えておられるでしょうか。
SEALDs主催の国会前デモで別の団体に所属する福岡の大学生がこう発言して注目を浴びました。
「そんなに中国が戦争を仕掛けてくるというのであれば、そんなに韓国と外交がうまくいかないのであれば、アジアの玄関口に住む僕が、韓国人や中国人と話して、遊んで、酒を飲み交わし、もっともっと仲良くなってやります。僕自身が抑止力になってやります。抑止力に武力なんて必要ない。絆が抑止力なんだって証明してやります。」
日本を取り巻く安全保障環境への現実認識が欠落し、「美しい花」にのみ気をとられ、なぜ美しい花が咲き誇れているのか、その弛まぬ努力、苦労に思い至らない。この若者の発言は、たとえば橋下徹氏の一連のツィートの文言に通底します(百田尚樹さんの近著『橋下徹の研究』[飛鳥新社]を御参照あれ)。
安保法制整備の論議の際に叫ばれた「戦争法案反対!」という観念の遊戯のようなスローガンに共鳴するスイス国民はいないか、いてもごく僅かでしょう。
「自虐バイアス」と「敗戦ギルト」に囚われている限り、東京裁判史観から脱却出来ず、「独立」への意志は、日本がまた侵略戦争を起こす道に違いないと思い込んでしまう。日本は反省と謝罪を繰り返し、この列島に縮こまっているほうがいい、それで世界の平和は保たれる、となる。中国の核も、北朝鮮の核も脅威には見えない。
日本は他国を侵略しない。しかし、他国に日本の国土と国民の命が脅かされたときは自衛のために断固戦う。少なくとも戦う権利は放棄しない。これが危険思想ならスイスも平和愛好国ではなく危険な国家ということになります。戦うことを悪の領域に縛り続けることは、自らの自由な意志を失うことであり、命を守る最善の選択でもない。
有馬さんは前掲書の「終章」をこう結んでいます。
〈「戦争はどんな戦争も悪である」と信じ、ひたすら言葉だけで平和を唱えているわけにはいきません。戦争を抑止し、回避するために、そろそろ必要とされる歴史リテラシーと軍事リテラシーを身に着け、日本を「普通の国」にすべきだと思います。〉
「ライズ・アップ・ジャパン」も及ばずながら助けとなるべく努めて参ります。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
【上島嘉郎からのお知らせ】
●『日本経済は誰のものなのか?―戦後日本が抱え続ける病理』(扶桑社)
日本を衰微させる「病根」を解き明かし、いかに再起してゆくかの道筋を「経世済民」の視点から考えた田村秀男さん(産経新聞社特別記者)との共著。
●『「優位戦思考」で検証する大東亜戦争、日本の勝機』(ワニブックスPLUS新書)
大東亜戦争は無謀な戦争だったのか。定説や既成概念とは異なる発想、視点から再考した日下公人先生との共著。
*平成27年(2015)にPHP研究所から発行された『優位戦思考に学ぶ―大東亜戦争「失敗の本質」』に加筆、再刊しました。
●『韓国には言うべきことをキッチリ言おう!』(ワニブックスPLUS新書)
慰安婦問題、徴用工問題、日韓併合、竹島…日本人としてこれだけは知っておきたい。