「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉に情理はあるか―。

司馬遼太郎は、『峠』のなかでこう述べています。

〈――官軍

ということばを、この時代、越後から奥羽にかけての武士たちはきらった。「かれらは官軍ではない。薩長両藩が私心をはさんで勝手に朝廷をかついでいるだけである」という解釈であった。

敵は、西からくる。このため、敵を、

――西軍

とよんだ。継之助も、西からくるあたらしい勢力のことを西軍とよんでいる。〉

『峠』は、越後長岡藩家老、河井継之助を主人公に据えた歴史小説で、文中の継之助とはその人です。司馬さんは、〈幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった〉とし、〈「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた〉と云います(同書あとがき)。

継之助は非門閥家老で、彼が藩政を担当したときには、すでに京都で将軍慶喜は政権を朝廷に返上していました(大政奉還)。鳥羽伏見の戦いが起き、その後の展開のなかで官軍に降伏し、藩を保つ手もあったでしょうが、結果的に継之助はその道を選びませんでした。

〈人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている。〉(同)

倒幕派も佐幕派も、こうした幕末人であると考えるならば、あたかも溶鉱炉のなかで鉄が鍛えられる熱の高さと、国事に奔走する人々が内包した矛盾や衝突の激しさは、〈人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考え〉た結果であると云えます。もちろん、そこには幕末人として個々に教養の有無や性格の激情、温厚などといった人間の本質に帰する要素があり、それを抜きには語れません。

越後長岡藩の前に現われた「西軍」の軍監は、土佐藩の岩村精一郎でした。

〈ときに岩村は二十四歳である。身分もいやしく、いわゆる志士歴もあるかなきかの程度であったが、とにかく坂本龍馬の門人である(生前に会ってはいないが)という一種不可思議な経歴がものを言い(このあたりが、乱世であろう)、奇蹟的に抜擢をうけた。〉

司馬さんがこう語る岩村は、河井継之助という人物が最後までわからなかったようです。継之助は倒幕、佐幕の間にあって中立を保とうとしました。彼は会津と桑名両藩の軍使が奥羽列藩同盟への加盟を求めたときそれを拒み、官軍に対しても出兵を断ります。下僚たちに戦備を整えるように命じたあと、「敵はいずれに」と問われると、「敵は西軍でも会津でもない。軍装して我が領内に入る者はことごとく敵である」と答えたのです。

慶応4年5月初め、官軍の先鋒隊は長岡城から間近い小千谷に迫ります。継之助は小千谷の慈眼寺に軍監岩村精一郎を訪ね、しばらく時間を与えてほしいこと、必ず会津、桑名、米沢の諸藩を説得し、王師(官軍のこと)に抗わぬように申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いの起こらぬように努める旨を訴え、官軍総督への嘆願書の取り次ぎを請願しました。

ところが、岩村はそれを一顧だにせず「問答無用」と席を払って立ち、その後も夜遅くまで慈眼寺の門前で面会を望んで待つ継之助を「銃剣で追え」と兵に命じ、追い払ってしまったのです。司馬さんは、〈それを見送っている官兵たちは、この瞬間からあの凄惨きわまりない北越戦争の幕が切っておとされようとは、むろん実感としてなんの思うところもなかった〉(『峠』)と綴っています。

〈継之助は、小千谷を去った。

――官軍の大きな失敗だった。

とは、後年、新政府部内で一致した反省であった。たれが継之助を去らせたか。

「岩村だ」

と、後年、長州人品川弥二郎はいう。品川は長州革命派の正統ともいうべき松下村塾の出身で、多年志士活動をし、この時期は京都にいた。(略)とにかく後年、品川は、

「そもそも河井の相手に岩村のような小僧を出したのがまちがいのもとだ」

と、男爵をさずけられた岩村高俊を小僧よばわりしている。もっとも岩村はその風があった。物事の筋道を好み、理屈と正義を愛し、それをまもるためには居丈高になるところがあり、自然、寛容さにとぼしく、なにごとも高飛車に出てゆく。権力好きの小僧というか、どちらかといえば検察官の性格であったというべきであろう。

「だから人選がまちがっている」

と、品川はいうのである。〉(同)

小千谷での継之助の面談相手が、品川弥二郎のいうようにもし岩村精一郎ではなかったとしたら…。まことに人の世は、人間それぞれの器量、出逢いの縁、時機といったもので大きく変わるものなのでしょう。継之助は陣頭に立ち、長岡の藩士たちは火の玉のように燃え上がって「西軍」と戦い、一大出血を強います。

――会津と長州の話に戻ります。旧会津藩に縁のある人々のなかには、今日においても新政府、長州藩に対し「怨念」を抱き続ける向きがあります。では、その怒りの感情はどれほど歴史の事実の上に噴き出しているものなのか…。

「奥羽鎮撫総督」の事実上の指揮官として長州から世良修蔵、薩摩から大山格之助がつけられました。世良は、会津藩への軍事攻略を主張し、仙台藩に会津攻撃を命ずる強硬論を説きます。福島に滞陣中、会津藩に対する寛容な処置を請う奥羽諸藩の寛典請願を撥ねつけたため、慶応4年閏(うるう)4月、激昂した仙台・福島両藩士に旅宿で捕らえられ、須川河原で殺害されました。世良殺害の報は奥羽諸藩重臣の集う白石会議の場にも届けられ、「満座人皆万歳ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉ニ不止」(その場にいた米沢藩士宮島誠一郎の日記)という状況でした。

――私の手元に『戊辰怨念の深層』(歴春ふくしま文庫、平成14年刊)という本があります。著者は会津若松市生まれの郷土史家畑敬之助さんで、会津人の長州に対する「怨念」を〈客観資料に基づくもの、伝聞資料に拠るもの、そして「霞」みたいなもの〉の三つに分け、一番厄介な、実体のない霞みたいな怨念の正体を解き明かそうと挑んだ一冊です。副題には「萩と会津、誇り高く握手を」とあり、畑さんは〈機は熟している。席につこうよ萩と会津〉とまえがきを結んでいます。

畑さんは、同じ会津若松市出身の郷土史家の先輩となる宮崎十三八さんの『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社、平成5年刊)から、今日に続く「怨念」の原因として戊辰戦後の処理に触れ、次の四つを挙げました。

①会津藩は28万石から3万石に大きく削封された。

②藩士及びその家族1万7300余名は本土最北極寒の地・斗南(現青森県東部)に移住させられた。

③新政府は、戊辰戦後も「賊軍の死骸に手を付けてはならぬ」と厳命し、約1400の死骸は、野に街に秋から雪解けまで半年近く放置された。

④明治から大正にかけて国政面において会津は冷遇された。

畑さんは、①について、奥羽列藩同盟のうち削減率はたしかに会津が87%で最も高いものの、削封高でみれば仙台が34万5千石で最も多く、その次が会津の20万石であったと指摘し、そこには戊辰戦以前に幕府から与えられた天領5万石が含まれておらず、それを考慮すればそれぞれ25万石、削減率89%になると述べています。

②については、斗南は「凶作風」とも呼ばれる「やませ」が吹き込む、公称3万石でも実質は7千石の不毛の地で、衣食住ともに「これが人間の生活か」と思わせる残酷さに耐えねばならなかったと云います。しかし畑さんは同時に、斗南への移住を〈太政官が達したのは「陸奥国に高三万石の支配……」という総論だけで、地域の指定まで行った形跡はない〉とし、『会津・斗南藩史』(葛西富夫)を引いて、会津松平家の始祖保科正之を祀った土津(はにつ)神社のある猪苗代周辺に未来を託そうとする一派と、会津から遠く離れた陸奥国で家名を上げるほうが得策であると主張する一派が激しく対立し、〈抜刀騒ぎまで起こる始末〉を経て、後者に決したという説を示します。

〈会津藩に、斗南か猪苗代かの選択の自由があったことになる。もしそうだとすると、斗南移住を一方的に新政府の強制だ、とすることは不可能になる。(略)今の段階で、斗南の悲惨な生活をすべて長州の責任とするのはどうか、と疑問を呈しておきたい。〉

かように畑さんの分析は、冷静かつ公平であることに努めています。

③については、屍体の処理は明治元年10月に設置され、全会津を支配した「民政局」がそれを行ったもので、民政局は加賀、松代、越前、高田の諸藩からなり、軍政の実務を負いました。畑さんは〈長州・薩摩・土佐らの雄藩は、戦が終るとすぐ帰路につき、戦後処理は弱小藩に任せた〉ので、長州藩は屍体処理に関わらなかったのではないかと述べます。

実は、畑さんは平成30年(2018)10月13日、92歳で亡くなられました。その10日前の『河北新報』に「〈戊辰戦争〉戦死の会津藩士『半年間野ざらし』定説覆る/『降伏直後埋葬』示す新史料」という記事が掲載されています。

平成28年(2016)12月に発見された「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」をもとに、会津若松市史研究会副会長の野口信一さんが発表した内容を報じる記事で、会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)に新政府は埋葬を命令し、翌3~17日にかけて会津藩士4名が中心になって567の遺体を64カ所に埋葬し、その経費は74両。延べ384人が動員され、一人当たり1日2朱が支給されたと具体的です。

家紋の図など遺体発見当時の服装も詳細に記され、女性や子供の遺体もあったこと。大砲隊を指揮した山本八重の父山本権八の遺体や、一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と思われる遺骨の記述もあるとのこと。

記事は「藩士がすぐに埋葬されたことがわかり、喜ばしい。長州への怨念の障壁が取り除かれ、会津若松市民と山口県萩市との友好関係が築けたらうれしい」という野口さんの言葉を伝えています。「萩と会津、誇り高く握手を」と願った畑さんがこの世を去る直前、「埋葬禁止説」が覆る一報が出たことは、まさに奇縁というものかも知れません。

④については、畑さんも〈会津は戊辰敗戦から昭和初年までの約六〇年間、薩長藩閥政府の順逆史観による差別に、臥薪嘗胆の日々を送ってきた〉とし、〈その典型例に靖国神社問題がある〉と述べています。そこには元治元年(1864)の「禁門の変」における会津の戦死者が長い間、靖国神社に合祀されなかった事実があります。

〈朝廷側に立ったから官軍であるはずの会津側戦死者が靖国神社に祀られず、逆に皇居に攻め込んだがゆえに賊軍であるはずの長州側戦死者が靖国神社に祀られたという逆転現象〉に、畑さんは〈靖国神社の祭神に長州カラーが着いたとしても不思議はない〉と、靖国神社創建の経緯に触れつつ、その無念を隠しません。会津藩、桑名藩、彦根藩などの「文久二年及び元治元年における殉難者」が合祀されたのはようやく大正4年のことで、このとき合祀された会津藩士は32名でした。

かように点描しただけでも、幕末維新の頃は人々の意志の力が衝突し、怨みも、情けも、諸々の途轍もない感情の量が熱をともなって横溢し、矛盾を抱えた激動の時代であったことが察せられます。そして、そこに能力や思慮の足りなさを指摘できたとしても、全き愚行とはけっして云えないのは、多くの武士が〈どう思考し行動すれば公益のためになるかということを考え〉、混沌の坩堝(るつぼ)に飛び込んでいったからです。父祖の歴史となれば尚更合理で割り切れるものではなく、不条理と葛藤に満ちていることを知るのが歴史の教訓なのだと私は思います。(続く)

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