私事ですが、この11月25日、三島由紀夫没後48年の「憂国忌」でシンポジウムの司会を仰せつかりました。今日、「三島事件」といってすぐに「ああ、あのことか」と想起できる日本人は多くないでしょう。事典類を引くと、たとえばこう書かれています。

〈作家三島由紀夫の割腹自殺事件。 1970年 11月 25日午前 11時 10分から同日午後0時 15分にかけて三島は「楯の会」の会員4人を伴い,東京都新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を訪問,総監の益田兼利を縛り,不法監禁するとともに総監室を占拠。これを排除しようとした自衛隊員に日本刀などで切りつけ8人に重軽傷を負わせた。三島は自衛隊員に決起を呼びかけるアジ演説を行なったのち,早稲田大学学生森田必勝とともに割腹自殺した。(後略)〉(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)

同事典は〈この事件は,三島の動機についてさまざまな推測を生んだが,同時に彼の死によって特異な才能をもった作家が,この世界から失われたことが惜しまれている。〉と結んでいるのですが、いったい三島の心中にあったものは何か。事件後から今日まで様々な論議がなされていますが、皆さんは、この事件の4カ月半前に三島が書いたある一文をご存知でしょうか。

日本は1980年代から「グローバリズム」の大波にさらされてきました。「日本は世界の趨勢に遅れている」「世界標準に合わせなければ生き残れない」「改革が足りない」等々の掛け声のもと、政治の世界を見れば、与野党ともに「どちらがより〝改革〟の担い手にふさわしいか」を競ってきたようなものです。

グローバリズムを推し進めているのは誰か、といった議論は措きます。問題は、日本人はどうありたいのか。日本はどういう国でありたいのか、なのです。そして、〝その改革〟は日本を守ることにつながっているか。入管法の改正、水道事業の民営化、ダイバシティーの推進等々、政策としてそれが日本をいかに変質し得るかという議論がほとんどなされないまま進められようとしている今日だからこそ、根本的な問題意識を「三島由紀夫の言葉」を通じて皆さんと共有できればと思います。

【私の中の25年 予言といま~果たし得ていない約束】

◆恐るべき戦後民主主義

 私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。

 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。

 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。

 私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。

 この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。

 なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。

 この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。

 それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。

◆からっぽな経済大国に

 個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。

 肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離(かいり)に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、万葉集でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。

 私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失った。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚という徳が欠けており、果ては上田秋成や平賀源内のようになるのがオチであろう。

 自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。

 二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。〉(昭和45年7月7日付産経新聞夕刊)