昭和18(1943)年3月、第15軍の上にビルマ方面軍が新設され、新たに2個師団が増派されました。合計6個師団となり、ビルマの守備は「攻撃防御」に方針が改められました。敵軍は23個師半ですから、戦力に圧倒的な差があることに変わりはありません。追い詰められた日本陸軍が「血路」として企図したのが、今日悪名高い「インパール作戦」でした。

どこかで乾坤一擲の作戦をやらなければ自滅するしかない。第18師団長から第15軍司令官に就いた牟田口廉也中将の指揮のもと、昭和19(1944)年3月、インパール攻略の戦闘が開始されました。地形の険阻を無視し、補給を軽視した無謀な作戦と批判されるように、従軍した兵士を苦しめたのは糧食弾薬の決定的不足、それによる飢餓や病気で、結果的に英印軍の追撃を受けながらの後退は悲惨を極め、その後のイラワジ会戦などをふくめ、日本軍の撤退路には兵士の死体が無数に転がり、それは「白骨街道」と呼ばれました。

日本とともに戦ってきたBIAの30人の志士たちも分裂しました。バー・モウやボー・ヤン・ナイン(バー・モウの副官で女婿)は日本と行動をともにし、ミン・オンは日本を裏切るのは恩義に欠けると自決し、一方、バー・モウ内閣の国防大臣をつとめた古い同志アウン・サンは、敗勢に傾いた日本と共倒れになるわけにはいかないと「反ファッショ連盟」を組織して反日に転じました。

アウン・サンがラングーンのシュウェダゴン・パゴダの広場でビルマ国軍を編制し、「英軍と戦う」と強い決意で出陣したのは昭和20年3月17日の朝でした。市街は当時のビルマ国旗「孔雀三色旗」と日章旗で飾られ、ビルマ人たちは「ド・バーマ(ビルマ独立万歳)」を叫んで国軍を送り出したのですが、その10日後、彼らは突如としてペグーの日本軍を攻撃しました。

このときアウン・サウンはバー・モウに手紙を送り、「反日に立つのはビルマを生き残らせる唯一の方法」と苦衷を明かしました。戦後、鈴木大佐がビルマにおいてBC級戦犯容疑で英軍の裁判にかけられそうになると、猛然、「ビルマ独立の恩人に何をするか!」と抗議の中心になって鈴木大佐を釈放させたのもアウン・サンでした。

今日の「ミャンマー連邦共和国」政府はその建国を、英連邦を離脱して「ビルマ連邦」が成立した1948(昭和23)年1月4日としており、「ビルマ国」との連続性は公式には認めていません。

日本はイギリスのビルマ支配を解き、ビルマ人の独立の意志を涵養したのち敗れました。我が父祖が彼の地に残したものは何か。私たちが未来のために汲むべき教訓は何か。

バー・モウの言葉を記しておきます。

〈真実のビルマ独立宣言は、一九四八年一月四日ではなく、一九四三年八月一日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリーの率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。……日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。

……もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。〉(『ビルマの夜明け』)