前回からの続きです。ビルマ独立運動の〝司令塔〟たる鈴木敬司大佐が内地に呼び戻されたとき、BIA(ビルマ独立義勇軍)は鈴木大佐との別れを惜しんで軍刀一振りと感謝状を送りました。その感謝状はこう結ばれています。
〈ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人をわれわれは末長くなつかしむ。将軍(*鈴木大佐のこと)のビルマへの貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡んでも、われわれの感謝の気持ちは亡びることはない。将軍が日本に帰られたら、ぜひとも日本の天皇陛下や東条首相、そして老若男女に報告してほしい。われわれビルマ人の誠意、忠誠心、勇気、日本軍への協力、日本ビルマの友好への努力を――〉(『アジアに生きる大東亜戦争』)
では、実際にビルマの独立はどのように進められたか。昭和17(1942)年5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄に服役中のバー・モウが日本軍憲兵隊によって救出されました。若年から反英独立運動に参加していたバー・モウは、英ケンブリッジ、仏ボルドーの各大学に留学し、弁護士資格とビルマ人としては初の哲学博士号を得ていました。帰国後、「貧民党」を率いて議会に進出し、1937年、ビルマがインドから分離されると――ビルマはインドの一州としてイギリスに支配されていました――初代植民地政府首相に就任し、1939年2月までその職をつとめました。
バー・モウは日本とも接触を保ちながらタキン党と連携し「自由ブロック」を結成して総裁となり(アウン・サンが書記長)、1940年、武装蜂起計画を日本に通告しました。それを英官憲に阻まれ、アウン・サンは日本に亡命、バー・モウは捕縛され収監されたのです。
日本軍に救出されたバー・モウをビルマの指導者としてアウン・サンも推薦し、第15軍は彼を首班とする行政府の設立を進め、昭和17年6月4日に飯田祥二郎軍司令官がビルマ軍政に関する布告を発し、8月1日、バー・モウは中央行政府長官に任命されます。
翌昭和18(1943)年3月、彼は初めて日本を訪問し昭和天皇に拝謁、東條英機首相と会見してビルマの独立について話し合いました。そして8月1日、同年11月の大東亜会議開催を前に「ビルマ国」はバー・モウを首相として独立を宣言したのです。
これが遅すぎたという意見は日本国内にも、アウン・サンら独立運動家たちの間にもありましたが、とにかくも独立が宣せられたときビルマの人々がいかに歓喜し、感動したか。『ビルマの夜明け』でバー・モウはこう綴っています。
〈それは言葉では言い現わせないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群衆がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で〝万歳〟を叫んで、日本に対する深い感謝を現わす決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた。〉
このときのビルマの人々の喜びは、日本の庇護によってイギリスの圧制から解放されたと信じられたからでしょう。
しかし、この歓びは長くは続きませんでした。日本軍はビルマ領内から一旦敵の姿を一掃しましたが、全滅させて後顧の憂いを断ったわけではありません。昭和18(1943)年に入ると、ビルマ周辺には敵の大軍が侵入の機会を狙い、中国国境の怒江対岸に中国重慶軍の14個師団。インド国境レド前面、フーコン渓谷に蒋介石の参謀をつとめる米陸軍スティルウェル中将率いる新編制の米支軍2個師半。アラカン山脈を越えたインパールに英軍3個師団。南下してベンガル湾沿岸のアキャブ前面に英印軍4個師団。四方面合計で23個師半が取り巻いていました。(つづく)