ミャンマー(旧ビルマ)から帰国しました。しばらく戦前の日本とビルマの関係について綴りたいと思います。
今日、「ビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army)」について知っている日本人はどれほどいるでしょうか。
南方攻略作戦における兵力不足を承知していた日本軍は、昭和16(1941)年1月、ビルマ独立援助と援蒋ルート遮断を目的とした大本営直属の「南機関」(指揮官・鈴木敬司大佐)を設立し、タキン党(「我らビルマ人連盟」の通称)の青年30人を日本に脱出させ、中国の海南島で同年4月から半年にわたって教育と訓練を施し、開戦と同時にそれぞれの郷里に帰してビルマ独立義勇軍の編制に取り掛かるよう援助しました(この30人のなかにアウン・サンやネ・ウィンらがいました)。
日本はビルマに進出して英印軍を駆逐しなければマレーから蘭印の石油地帯を確保できない。ビルマは日本軍の進出に呼応して自国民の軍隊を組織してイギリス支配を打ち破る。両者の利害は一致し、30人の独立の志士を中心に編制されたBIAは、「ド・バーマ(ビルマ独立万歳)」と叫びながら日本軍とともに英印軍と戦うことになったわけです。
大東亜戦争で我が国がアジア各国に進駐して行った軍政の最大の特徴は、各国の独立の意思ある青年たちを教育し、組織し、その精神を振起したことにあります。彼らは日本の敗戦後、軍政下の経験を〝財産〟とし、白人宗主国と戦い独立を勝ち取ったのです。
BIAは、彼ら単独の戦闘単位としては訓練、経験が不足していましたが、偵察、情報収集、宣撫、補給から後方攪乱までよく日本軍に協力して勇敢でした。こんな挿話が伝えられています。
〈サルウィン川での戦いの真最中、数人の日本人将校が、ビルマ人にボートで対岸に渡してくれるように頼んだ。船の通路は数カ所の英国側陣地からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死にに行くようなものだった。しかし四人のビルマ船頭が進み出た。二人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの二人の船頭はまっすぐ平然と立って櫓をこいだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、二人のごぎ手は弾雨の中に倒れた。残る二人の船頭は一言もしゃべらず、騒がず、すぐに持ち場に着いて漕ぎ出した。ちょうど船が対岸に着いた時、この二人も弾にあたって死んだ。〉(『ビルマの夜明け』)
BIAの進撃にともなってビルマ全土に独立の機運が盛り上がっていき、大東亜戦争は日本の自存自衛を超えた「アジア解放戦争」であると捉えていた鈴木大佐は、30人の志士たちに英印軍駆逐後は独立を与えると約束しました。
当時海軍の報道班員だった山岡荘八は、戦後に著した『小説 太平洋戦争』でこのあたりの機微をこう記しました。
〈(義勇軍の若者たちの)その底にある日本軍への信頼もまた見遁(みの)がし得ないものであった。
私は、日本軍が、つねに誇称していたその「皇軍――」としての面目を、占領地域で遺憾なく発揮し得たのは、今村軍司令官の蘭印掌握時代と、このビルマにおける緒戦当時だけであったような気がする。〉
軍中央はすぐビルマに独立を与えたら、軍事物資の調達に支障が生じたり作戦行動が制限されたりするのではないかと懸念し、早期独立付与の鈴木大佐を疎んじるようになり、17年6月、彼を近衛師団司令部付として内地に呼び戻します。兵力2万3千人に達していたBIAの総指揮はアウン・サンに委譲され、南機関は解散となりました。鈴木大佐がそのままビルマに健在だったら…。(つづく)