ロシアのプーチン大統領がウクライナに対する軍事攻撃に踏み切りました。ウクライナは旧ソ連邦を構成していましたが、1991年12月のソ連崩壊を受け、その後主権国家として独立しました。プーチン氏は昨年7月、「ロシア人とウクライナ人は一つの民族であり、ロシアあってのウクライナの主権だ」と主張しました。旧ソ連時代の版図への郷愁があろうと、東スラブの兄弟民族という意識があろう、現在のロシアとウクライナは別の国です。「力の信奉者」が強行する「力による現状変更」は明らかな侵略と云わねばなりません。

プーチン大統領の最大の意図は、米国主導の北大西洋条約機構(NATO)の「東方拡大」を阻止し、欧州の安全保障の枠組みを再編することにあります。

そもそもロシアは、旧ソ連崩壊の混乱から再起する過程で、米軍を欧州大陸から引き揚げさせ、自らが主導して欧州の秩序を形成しようとしました。ところがNATOは東方に拡大し、ウクライナも加盟を希望するようになりました。ウクライナ自らの意思に基づくものですが、プーチン大統領にはそれは米国の画策の結果であり、ソ連の衛星国だった東欧諸国や構成国だったバルト三国が、ロシアの脅威から自国を守るためにNATO加盟を求めたとは思っていないのです。

実際、ソ連崩壊以前のNATO加盟国は、米国、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、トルコなど15カ国でしたが、1999年にポーランド、チェコ、ハンガリーの3カ国が、2004年にエストニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、ルーマニアなど7カ国が加盟し、2009年以降もクロアチア、モンテネグロ、アルバニア、北マケドニアが加わり、現在の加盟国は30カ国となっています。

NATOに対抗する形でソ連が主導した旧ワルシャワ条約機構の加盟国としては、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバなどが残っただけで、プーチン大統領はその版図を維持するために軍事攻撃という手段を選んだわけです。

ロシアの国民感情という問題も背景にあります。

時事通信の報道(2021年12月26日)によれば、ロシアの調査機関「世論基金」が、ソ連崩壊から30年を機に行った調査結果によると、回答者の62%が「ソ連崩壊を残念に思う」とし、「残念に思わない」(21%)を大幅に上回りました。「回答困難」は17%。同機関による2011年12月の同様の調査では「残念」は51%で、10年間で11ポイント増えたことになります。

さらにソ連崩壊でロシアが「敗北した」と考えているのは45%で、「勝利した」は32%でした。ソ連復活を「望む」との回答は52%で「望まない」(31%)を上回っています。旧ソ連構成国が将来再統合する可能性を問う質問では、47%が「統合は不可能」と答える一方、「全ての国」「大部分の国」「幾つかの国」と規模に違いはあるものの何らかの形で統合は出来るとする見方が計45%に達しています。「ロシアの復権」という、少なからぬ同国内の声がプーチン大統領を後押ししていると云えるでしょう。

プーチン大統領は20世紀初頭までの帝国主義的な感覚で、「強国」が力を行使して既成秩序を変更するのは当然の権利と考えています。核兵器を保有し、エネルギーや食糧を自給出来る国にはその資格があり、他国から軍事的、経済的援助を受けねば生存出来ない国は「強国」の意志に添うべきだという考えです。

ルールを決めたり変更したり出来るのは「強国」のみと考えれば、約束反故などの批判は痛くも痒くもない。

逆にプーチン大統領は、ロシアは、冷戦終結時にNATOが東方拡大をしないとした約束を反故にしたと主張しています。これは1990年、当時のジェームズ・ベーカー米国務長官がミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長に対して「NATOがドイツより東に一インチも拡大することはない」と発言したことを指していますが、米ソ間の約束となる条約や協定の形をとったものではなく、云ってみれば米政府高官による情勢発言の一つでしかありません。プーチン氏が強弁するような国際合意は存在しないのです。

ロシアのウクライナ侵攻は、東部地域における紛争の包括的停戦を謳った2015年の「ミンスク合意」と国連憲章、遡ってウクライナが独立にあたってソ連時代からの核兵器を放棄してロシアに移管する見返りに領土保全や主権を保障されるとした1994年の「ブダペスト覚書」のすべてを反故、と云うより蹂躙するものです。

「ブダペスト覚書」に詳しく触れると、ソ連からの独立時、ウクライナ領内には約1900発の核弾頭が残されていました。ウクライナは独立国としてこれらの核弾頭保持の意向を表明しましたが、ロシアはもちろん、米国、英国が核拡散防止の観点からこれに強く反対したのです。

ウクライナに対し、核不拡散条約(NPT)への加盟と核兵器の撤去が求められ、それを受け入れる条件として「領土保全、政治的独立」に対する安全保障を3カ国(米英露)が提供することで合意しました。フランス、中国はこの趣旨に賛同し、別々の書面で同様にウクライナに安全保障を提供しました。

先月22日のシンポジウムにも御登壇くださった織田邦男元空将は、こう語っています。

〈国連の常任理事国がこぞってウクライナに対し、核兵器の撤去を条件に安全保障を約束したわけである。

 国連がウクライナの領土の一体性を保障したにもかかわらず、2014年3月、クリミア半島はロシアに併合された。

 一夜にして「ブタペスト覚書」は反故にされ、国連はウクライナの領土保全を守れなかった。〉(「核放棄から始まったウクライナ危機、力なき外交の現実」令和4年2月22日「JBpress」)

ウクライナ東部のロシア系住民保護を名目に軍事力で威嚇し、譲歩を米欧に迫る手法は、第二次大戦前、ヒトラーがミュンヘン会談で当時のチェコスロバキアの一部(ズデーテン地方)割譲を英国などに受け入れさせた手法を想起させます。英首相チェンバレンはそれを和平のためと考えましたが、このときの宥和政策がその後の大戦に道を開いたと云えます。

バイデン米大統領は「プーチン氏は破滅的な人命の損失をもたらす戦争を選んだ。米国は同盟・友好国と結束して断固対処する。世界はロシアの責任を追及する」と強い口調でプーチン氏を非難しましたが、現在のところ抑止行動としては経済制裁にとどまっています。バイデン氏は昨年8月のアフガニスタンからの米軍撤収で、軍事介入にきわめて消極的なことを示しました。カブールを守れなかったバイデン氏の態度をプーチン大統領は米国の弱さと見て、ウクライナ問題で米欧に圧力をかける最大の引き金になったのでしょう。

米欧をはじめとする西側の自由・民主主義陣営とロシアとの対立は決定的になりました。日本がどこに立っているかは自明です。共同して強い対露制裁を速やかに発動し、プーチン政権に打撃を与えてその軍事的、政治的野心を抑え込む必要があります。

では、我が政府、我が国民にその意識はあるか。

2月19日、20日の両日実施された産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査によれば、ロシアがウクライナに軍事侵攻した場合の経済制裁の是非についての質問で、制裁に踏み切るべきだと「思う」は43・9%で、「思わない」(44・1%)を下回っています。蹂躙されつつあるウクライナは対岸の火事でしかないのか。軍事攻撃が開始された24日の参議院予算委員会でも、ウクライナ情勢をめぐる質疑は内容の乏しいものでした。

中国はこうした日本人の「平和ボケ」を見てほくそ笑んでいるでしょう。日本は東アジア情勢と連動させた視点からウクライナ問題に向き合わねばなりません。

織田元空将は2014年のロシアのクリミア併合時の中国についてこう振り返っています。

〈中国共産党機関紙である人民日報に掲載された記事が印象深い。

「西側世界は国際条約や人権、人道といった美しい言葉を口にしているが、ロシアと戦争するリスクを冒すつもりはない」

「約束に意味はなく、クリミア半島とウクライナの運命を決めたのは、ロシアの軍艦、戦闘機、ミサイルだった。これが国際社会の冷厳な現実だ」

歴史に「もし」は禁物だが、もし1900発の核弾頭のうち、10発でもウクライナが引き続き保有していれば、クリミア半島の併合はなかっただろう。また現在の緊迫したウクライナ情勢もなかったはずだ。

核にはそれだけの「力」がある。だから北朝鮮は民が飢えても核を手放さない。

「ブタペスト覚書」は、「力なき外交」が如何に無力であるかという「国際社会の冷厳な現実」を証明したといっていい。〉(前掲)

イギリスのジョンソン首相は2月19日、ミュンヘンで開かれた安全保障会議で「ウクライナが危機にさらされれば、世界中に衝撃が波及する。東アジア、台湾にも波及するだろう」「侵攻が割に合う、力は正しいとの結論につながってしまう」と語りました。英首相が「台湾」に言及しているのに対し、我が岸田首相はどうか。

岸田首相は24日の参議院予算委員会で、「さらなる措置を取るべく速やかに取り組んでいく」と語りました。この時点で台湾海峡有事の可能性に言及しなくとも、それを踏まえての覚悟や方針があるのか、なんとも曖昧と云わざるを得ません。

救いは高市早苗自民党政調会長です。

24日の党政調審議会でウクライナ問題についてこう述べています。

「遠い欧州で起きていることじゃない。ロシアは日本の隣国で、まさに自分たちの問題として考えることだ。ロシアと中国も非常に接近している。」

国民の意識がどこに向かうべきは明らかです。ウクライナ危機を「対岸の火事」と見る限り、私たちは明日にも迫るかも知れない危機を認識出来ず、またその時、価値観を共有しているはずの国々からの支援を求めることも出来ないでしょう。

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