台湾の総統選挙・立法院(国会)選挙が11日、投開票され、中国(中華人民共和国)の圧力に抗する姿勢を強く示してきた民主進歩党の蔡英文(さい・えいぶん)総統が、親中路線の野党、中国国民党の韓国瑜(かん・こくゆ)高雄市長に大差をつけ、史上最高得票で再選を果たしました。

立法院(定数113)でも、民進党は過半数の61議席を獲得し、台湾統一に武力行使を放棄しないとする中国に対し、台湾の民意は強烈なノーを突き付けたことになります。

https://digital.asahi.com/articles/ASN197RQ6N19UHBI037.html?pn=5

「ライズ・アップ・ジャパン」令和2年1月号では、日本と台湾の歴史的な絆を踏まえ、今回の選挙の意味、日本は日台関係においていかなる姿勢を貫くすべきかなどについて語りました。

中国で台湾政策を担当する国務院台湾事務弁公室は、選挙結果が判明した11日深夜、いかなる形の「台湾独立」、中台分裂活動にも断固反対すると声明を出し、当選後の記者会見で「国家主権を守り続ける」と決意を述べた蔡英文総統を牽制しました。

中国は今回の総統選挙で蔡氏の再選を阻止するため、豊富な資金と人員を投入し、インターネットなどによる情報操作、金銭提供や武力の誇示など様々な手段を用いて選挙介入を行いました。

にもかかわらず蔡氏の圧勝となったことは、習近平国家主席の掲げる「中華民族の偉大な復興という中国の夢」の核心でもあった中台統一が遠のいたことを意味し、台湾政策において強気一辺倒だった習指導部に再考を迫るものです。

習氏の誤算は、昨年1月の演説で「一国二制度」に基づく中台統一に向けた政治対話を台湾に要求した際、武力行使を辞さない方針を示したこと。さらに昨年6月以降続いている香港における「逃亡犯条例」改正案を切っ掛けとした市民の抗議活動に対する弾圧が台湾人の警戒心を深め、一国二制度が事実上形骸化され、自由や自治を奪われつつある現状が、中国の要求を容れた場合の将来の台湾の姿と受け止められたことです。

思い返せば1996年、台湾初の総統選挙(民選)で李登輝氏の当選を阻止するため、台湾人を恫喝すべく台湾海峡に「演習」と称してミサイルを撃ち込んだ江沢民主席(当時)の中国に対し、台湾人はそれに怯むどころか、李登輝氏に全得票の54%を与え、「独立」志向を鮮明にした彭明敏氏の21%と合わせて75%が「独立」ないし「自立」をめざす姿勢を示しました。このとき李氏は、中台統一というスローガンを捨てない中国国民党に身を置きながら、総統として台湾における非国民党化(台湾化、本土化とも)を進める離れ業に挑んでいました。

その後、台湾は李登輝→陳水扁と本省人の総統が続き、台湾は中国の一部ではない「台湾人の国」として分水嶺を越えたかに見えたのですが、陳水扁の急進的な独立志向と政治的な未熟さ、経済の停滞などが重なって馬英九という親中派の総統に取って代わられ、その馬総統時代(2期8年)を挟んで三度本省人の総統として蔡英文氏が登場(2016年1月総統選挙)したという流れになります。どんな国の歩みも平坦ではありません。

日本は戦前、半世紀にわたって台湾を統治しました。明治27(1894)年、日清戦争が起こり、下関条約の結果、日本に割譲された台湾は、大東亜戦争の敗戦で領有を放棄するまで日本国でした。その間、日本人と台湾の人々の間にどのような関係が結ばれたか。あるいはどのような葛藤があったか。以下、やや長文になります。

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに『台湾紀行』(朝日文庫)の一冊があります。司馬さんは日本の統治時代をこう記します。

〈私は日本人だからつい日本びいきになるが、余分な富力を持たない当時の日本が――植民地を是認するわけではないにせよ――力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利事業をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた。〉

同書には司馬さんと李登輝さんの対談も収められています。そのなかで司馬さんが福澤諭吉の「立国は私なり、公に非(あら)ざるなり」という言葉を引きながら、台湾における公の精神の涵養について触れたのに対し、李さんが「シバさん、私は二十二歳まで日本人だったのですよ」と応じる場面が出てきます。

「植民地に対しては、宗主国というのは、自国のいいところを見せたがります。シンガポールに対する英国もそうでしたし、台湾における日本もそうでした」と李さんは言い、司馬さんはこう受け止めます。

〈そういわれてみると、古いころの日本は、国力の点では分不相応に、台北において上下水道などを完備させている。いい格好をしてみせたかったのにちがいない。

 むろん、李登輝さんがいっているのは、そういう物質面だけではなさそうである。

 自分は、とこの人は言う。初等教育以来、先生たちから日本人はいかにすばらしい心を持っているか――おそらく公に奉ずる精神についてに相違ない――という教育をうけつづけたんです。むろん大人になってから日本にゆくと、日本にもいろんな人がいるということを知りましたが。

 しかし、二十二歳まで受けた教育は、まだのどもとまで――と右手を上に上げて――詰まっているんです、といった。

 たしかに、そういわれてみると、李登輝さんは日本人の理想像にちかい人かとも思えてくる。〉

 断片にすぎないかも知れませんが、これは日本統治時代の日本人と台湾人の絆の一つを示す話でしょう。こうした些事とも見える事柄が、どれほど日本人と台湾人の間には積み重なっているか。

 こんな話も司馬さんは『台湾紀行』に書きとめています。「ごく最近にきいた話」とありますから、同書の発行時期からして平成4年か5年頃耳にした話ではないかと思われます。大蔵省造幣局のある幹部が1980年前後、大蔵省から派遣され、財団法人交流協会台北事務所の一員として滞台した折のこと。

〈仮りに、Aさんとする。滞台中、一人で東部の山中を車で駆けていたとき、大雨に遭った。

路傍の木蔭に、山地人の老人とその孫娘が雨を凌いでいたので、乗せた。

乗ってきた老人にとって、戦後、日本人に会うのが初めてだったらしい。このため、話が大ぶりになった。

「日本人は、その後、しっかりやっているか」

 といったぐあいに、なたで薪を割るような物言いで言う。

「はい、日本はお国に戦争に敗けたあと、はじめは虚脱状態だったのですが、その後……」

 と、Aさんがいうと、老人は、さえぎった。

「お国とはどこの国のことだ」

「あなたの中華民国のことです」

「いっておくが、日本は中華民国に敗けたんじゃない」

「敗けたんです」

 変な話になった。

 この老人も、日本が連合国に降伏したということは、知っているはずである。その連合国のなかに、中華民国は入っていた。

「いや、敗けとりゃせん」

 と老人がいうのは、区々(くく)たる史実よりも、スピリットのことをいっているらしい。

 降りるとき、この〝元日本人〟は、若い日本人に、「日本人の魂を忘れるな」といった。

 孫娘もきれいな標準日本語をつかっていたそうで、山中と言い、大雨と言い、民話のような話である。〉

司馬さんは「民話のような話」というのですが、私には、生者と死者が行き交う、何か霊的な一場面のような感じがします。

もう一つ。「この話は、古い」と司馬さんはいいます。産経新聞社で働いていた頃の中山了(さとる)という同僚が体験したことで、終戦時、陸軍の経理部将校として台湾の東部にいました。

〈経理部の残務処理を終え、部下数人とともに山から下りた。

 山道をくだるうち、前方の草むらが突如動いたそうである。みると、見知らぬ山地人の壮漢が、片ひざをつき、腕をのばして一椀の地酒を差し出してくれていた。

 わけがわからぬまま礼を言い、すこし飲み、部下に飲ませた。

 さらにくだると、べつの山地人がかがんでいて、おなじく一椀の地酒をさしだしてくれた。最初の人と同様、無言だった。

中山了氏は感激性のつよい人で、いちいち立ちどまって答礼するうち、涙がこぼれた。山地人が、こんな形で日本国の亡びを悼み、かつ別れを告げてくれたのである。〉

司馬さんはこうした話を〈日本との関係はすべて過去に属し、Aさんが山中で出遭った老人が夢の中の人であったかのように、すべて遠い光景になった〉と結ぶのですが、私には、老人の「日本人の魂を忘れるな」という言葉は、過去に置き去りにして顧みなくてよいとは思われません。いまを生きる日本人が汲み取らなければならない〝元日本人〟からの、その絆を証するメッセージではないか。

もちろん、日本が台湾を領土としてから、両者の関係がすべて好事であったわけではありません。

たとえば昭和5(1930)年に起きた「霧社事件」。台湾中部の原住民タイヤル(セデック)族が大規模な武装抗日暴動を起こし、山間部の霧社(現在の南投県仁愛郷)の日本人男女を大人子供問わず約140人殺害しました。これに対し総督府は警察と軍で武力鎮圧し、タイヤル族も約700人が死亡したとされます。

実際、霧社のタイヤル族は日本の統治時代が始まるといち早く協力したといいます。同時に日本化を頑強に拒むところがあり、そのせいで日本の官憲に目の敵にされ、山を封鎖されたり、針や塩などの交易商品が入らないようにされたりした事実があったようです。彼らの武装蜂起は、日本の官憲に対する反発や憎悪、侮蔑への怒りなどが原因で、司馬さんは『台湾紀行』に、明治以来の警官たちが住民の自尊心を傷つけなかったらおこらなかったはずである、と書いています。霧社事件は、日本統治時代に起きた山地人による最後の大反乱でした。

魏徳聖(*ウェイ・ダーシェン)という台湾の映画監督がいます。台湾人の歴史を描くことをテーマに、日本との関わりを物語の主題に据えた作品を撮っています。「海角七号/君想う、国境の南」(2008年)で長編監督デビューした彼は、同作で台湾映画史に残る大ヒットを記録。その後、「セデック・バレ」(2011年)を監督、「KANO〜1931海の向こうの甲子園〜」(2014年)では脚本と製作をつとめました。

「海角七号」は、台湾の美しい海辺の街を舞台に、六十数年の時空を超えて日本人と台湾人をつなぐ切ない恋を描いた作品。「セデック・バレ」は、霧社事件を題材としたことから、日本国内では一部に反日映画と反発した向きもありました。魏徳聖は「海角七号」にしろ「セデック・パレ」にしろ、「台湾人の歴史、台湾人の物語」を描きたいと語って、日本との関わりの光と影を描く彼のバランス感覚は公平なものと私は評価しています。

「KANO」は、昭和6年(1931)年8月、台湾から甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林学校野球部を描いた青春群像劇で、日本人の監督と台湾に暮らす異なる民族の球児たちが育んだ強い絆が主題です。嘉義農林の甲子園準優勝が、凄惨な霧社事件の翌年であることに不思議な思いがします。

いったい日本人と台湾人はどんな関係を築いたのか――。

総統退任後の李登輝さんにインタビューしたとき、李さんは、外来の侵入者によって運命を左右されてきた台湾人の運命を「悲哀」という言葉で語ったのと同時に、日本統治を明らかに欧米の植民地支配とは異なる行為であると語りました。歴史的にきわめて「異形」ともいえる日本と台湾の関係を、むしろ日本人のほうが急速に忘れてきているのかも知れません。

日本の台湾統治について、弱肉強食の帝国主義の時代にもかかわらず台湾にとってはベルエポックだったと語る台湾人は少なくありません。配信中の「ライズ・アップ・ジャパン」でも金美齢さん、許千恵さんらの言葉を紹介しました。私が出逢った〝老台北〟蔡焜燦さん、ABS樹脂の世界的メーカーである奇美実業の創業者許文龍さんも、同じように語っていました。

「別に日本に阿っているわけではない。とくに戦後の日本にそんな義理はない。しかし当時の事実はそうだったのだから、私たちはただフェアでありたいだけなのだ」と。

日本と台湾は特別な関係である、と私は思っています。それは安倍晋三首相がいう「自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を共有」しているだけでなく、歴史的な絆の存在です。

――さて、台湾総統選挙の結果を受け、超党派の「日華議員懇談会」の古屋圭司会長(自民党)は蔡英文総統の再選を「喜ばしい。安全保障面でも台湾や米国との連携は重要だ。今後も議員外交を通じ日台の連携強化を進めたい」(11日、産経ニュース)と述べました。

また茂木敏充外相も11日夜、「台湾はわが国にとって基本的な価値観を共有し、緊密な経済関係と人的往来を有する重要なパートナーであり、大切な友人だ」とし、「日台間の協力と交流のさらなる深化を図っていく」(同)との談話を出しました。

安倍首相の談話は、本稿執筆時において確認できていません。蔡氏とツイッター上で度々交流してきた安倍首相は、台湾を「友人」と呼んできたはずですが、習近平氏の国賓来日問題を抱え、外相談話に任せて直接的には何も言及しないのか。それとも……。

安倍首相の正念場であり、それは日本国民一人ひとりの問題意識、覚悟を問うことにも繋がってきます。

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・12月25日【Front Japan 桜】〈製造業の復権こそ成長戦略の目玉!/安倍総理、正しい日本の少子化対策を!〉

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