間もなく5月27日がやってきます。高知県の桂浜を訪れたことのある方は、龍頭岬の高台に太平洋を望む坂本龍馬の銅像を御覧になったでしょう。懐に手を入れ、台に寄りかかった立ち姿は、龍馬ファンなら誰もが知っている長崎で撮影された写真と同じです。
この銅像が完成し、除幕式が行われたのは昭和3(1928)年5月27日でした。海軍記念日に合わせ盛大に執り行われ、海上には呉からやってきた駆逐艦「濱風」が投錨し、約1万人が集まって龍馬の事績を偲んだといいます。
日本海軍は、幕臣勝海舟が基礎をつくり、薩摩の山本権兵衛が育てたと言ってよいと思いますが、その基礎づくりに坂本龍馬も大いに関わりました。海舟が幕府に建言してつくられた神戸海軍操練所に学び、海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭をつとめ、そうした活動と経験はのちの「海援隊」につながっていきます。
さて、その龍馬が維新回天の途次に倒れた37年後。明治37(1904)年2月、昭憲皇太后の夢枕に現われます。日露戦争開戦の直前です。昭憲皇太后が葉山御用邸に滞在された折の或る夜、白無垢を着た一人の男が御座所の入り口に平伏してこう申し上げたというのです。
「臣は維新前国事の為に身を致したる坂本龍馬と申す者にて候。海軍の事は、当時より熱心に心掛けたる所に候へば、今回、露国との戦端、いよいよ開けん暁には、身は亡き数に入り候へども、魂魄は御国の海軍に宿り、忠勇義烈なる我が軍人を保護仕(つかまつ)らん覚悟にて候」
千頭清臣『坂本龍馬』
不思議な一夜のあと、昭憲皇太后が龍馬の写真を取り寄せて見ると、まさに夢に現われた男であったと。戦意高揚のための作り話と切って捨てる後世の人々も少なくありませんが、日本人であれば「留魂」ということを信じられるのではないかと私は思っています。
『龍馬の八策』(PHP新書)の著者である松浦光修氏(皇學館大学教授)は、同書で吉田松陰の言葉を引いてこう書いています。
「すでに私は、楠公たちと同じ〝理〟を、自分の心にしています。そうであるのに、どうして私の〝気〟が体にしたがい、やがては腐りはて、崩れはてることで、すべてが終わりになるでしょうか」(「七生説」)
『龍馬の八策』(PHP新書)
たとえ身は滅びても、魂を留めて日本を守る……、つまり「留魂」ということを、松蔭は、本気で信じていました。そして、たぶん幕末の志士たちの多くも、同様の思いで生き、そして死んでいったにちがいありません。
だから、龍馬ほどの人物であれば、その「留魂」は、それ以後も日本を守り続けていても不思議ではない、と。
さて、5月27日に関連付けてもう一つ。
英国人はけっしてトラファルガルを忘れはしない。それはいまから百五十一年前に、ネルソン提督が仏西の連合軍を撃破して、イギリスの海上覇権を確立した海戦である(一八〇五年十月二十一日)。その日をトラファルガル・デーと称し、本国においてはもちろん、海外各地にあっても、英国人の集まるところでは、かならずディナー・パーティーを催し、まず女王陛下のために乾杯し、ついで任国の元首の健康を祈り、最後にネルソン提督に感謝の杯をあげて歓談に入ることを行事としている。
伊藤正徳『大海軍を想う』
大正、昭和と第一線で健筆をふるった海軍記者の伊藤正徳がこう書いたのは昭和31(1956)年でした(『大海軍を想う』)。伊藤はその前年の10月21日、東京・虎ノ門の英国人倶楽部に70名ほどが礼装で集合し、トラファルガル・ディナーを催したことに触れ、使用人の一日本人がこう語ったと記します。
その会の次第を見まもっているうちに、なんら教養のない身分ではあるが、なんとなくイギリス民族の偉さというようなものを感じ――理由はわからないが、そう感じ――、自分たちにすれば東郷大将だなと思いましたが、東郷の名は十年一回も耳にしたこともなく、まして日本海海戦がいつであったかなぞは忘れてしまって、日本人として恥ずかしい情をもよおした。
伊藤正徳『大海軍を想う』
伊藤は〈イギリスにネルソンの名を知らない児童は一人もいない。いまの日本に、東郷の名を知っている児童は、百人の中に何人いるだろうか〉と嘆きました。
日本の歴史において英国のトラファルガー海戦に匹敵するのは日露戦争の「日本海海戦」です。時に明治38(1905)年5月27日――。
ネルソン提督の乗艦は「ヴィクトリー号」でした。我が聯合艦隊司令長官東郷平八郎の乗艦は、今日横須賀に記念艦として保存されている「三笠」です。二つの艦はともに祖国の大殊勲艦ですが、大東亜戦争後の日本人はその三笠をどのように放っておいたか。これを忘れてはならないと思います。
以下、伊藤正徳の前掲書から――。
ワシントン条約で戦艦の保有量が決まったとき、日本は、念のために一万五千トンの戦艦「三笠」を制限外に認めてほしいと提議したとき、英米の専門委員は一言の下に、「もちろんだ、それは日本国民の不可侵権の一部だ」と即座に快諾し、国際条約の一項として保全が認められたのであった。条約上の権利をになって、東郷の旗艦「三笠」は、永久に――鋼鉄艦でもあるから――国民に接するための姿をととのえた。
いかに戦争に負けたとはいえ、戦後のその廃頽ぶりは悲惨そのものであった。東郷平八郎の部屋は、カッフェー・トウゴーとなった。口紅あかく眥(まなじり)あおき半裸の商女が、怪しいハイ・ボールを酔客にひさいでいた。作戦室には麻雀の四卓が、深更まで牌の騒音を流していた。士官室はダンスホールとなって、明治三十八年五月二十七日に、そこで敵の十二インチ砲弾が炸裂し、六十余名の勇士が死傷した苦戦の思い出は、タンゴとかタップとかの靴の音にかき消されていた。
この有り様を見て悲しみの眼をおおうたのは、日本人ではなくて、英国の貿易商ジョージ・ルービン君であった。それを聞いて私は、日本人の恥を知った。
ルービン君は、「三笠」が英国で造られているとき、出入りの時計商として「三笠」の回航員と親しくなり、「三笠」に愛着を持つようになった。その軍艦の写真を応接間に掲げていたが、第二次大戦中には、人目をはばかって自分の寝室に移し、ひそかに艦と友人とを偲んでいた。昭和三十年秋、君は商用があって、七十五歳の老躯も若々しく、日本の土を踏んだ。
はじめて日本へ来て、第一に赴いたのは、奈良、京都ではなく、「三笠」のつないである横須賀であった。ルービン君は、そこで「三笠」を見て日本のさかんなりし往時を偲び、東郷の霊に語り、国破れたりといえども、「三笠」の精神あるかぎり、ふたたび往時の栄誉を復する日のあらんことを祈ろうとした。何ぞはからん、見たものは船体汚れ、橋檣破れたる「三笠」であり、語ろうとすれば、粉黛なまめかしい商女のほかには人影もない。ルービン君すなわち憤然、踵を蹴って帰り、ただちに一書を日本タイムス紙に寄せて、日本人の愛国心に質疑して曰く、「日本人は『三笠』の現状を知っているのだろうか。おそらく知らないのであろう。知っていれば、あの国辱的荒廃を放っておけるはずはないと思うからだ。一九〇〇年、『三笠』の回航員であった人々の中で存命中の方があれば、至急連絡を願う。私はこれについて語らねばならない」と。幸いにして、二、三の存命者が現われて憂国の物語をともにした。ルービン君は、その人々の「三笠」保全の約束をよろこび、ある金額を寄進して、ひょうひょうとして故国に去っていった。
ネルソン、トラファルガー、ヴィクトリー。東郷、日本海、「三笠」。五月二十七日の海戦に、つねに先頭に立って被弾三十七個を算した「三笠」。それは日本の「連合艦隊」のただ一つの残存する旗艦でもある。日本の独立を防衛した、人と時と艦とを、人々はもう少し記憶してよかろう。
伊藤正徳『大海軍を想う』
このルービン氏の行動が契機となって、「三笠」は曲折を経て今日の姿をとどめています。英国のヴィクトリー号はといえば、〈トラファルガル海戦が、イギリス人の不滅の記憶であるのと併行して、英政府はヴィクトリー号を永久に保全することを志し、それをポーツマス軍港につないで、国民の参観に供すること〉今日まで続き、2012年8月からは第一海軍卿の旗艦として英海軍の光輝を担っています。
彼我の違いは、ただ先の大戦の勝者と敗者の戦後というだけにとどまらないでしょう。日本人は何を置き忘れてきたのかを問い続けるものです。5月27日に限りません。民族の記憶が希薄化していくことは、私たちが何者であるかを忘れていくことです。
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