「ライズ・アップ・ジャパン」を御視聴の皆さん、ちょうど10月号から11月号に配信が切り替わったところですね。いつも御意見、御感想を寄せてくださり、まことに有り難うございます。

私の話は、たぶん一銭の得にもなりません。時には不愉快にすらさせる内容で、にもかかわらず、お付き合いをいただいていることを本当に忝く思います。

10月号は、いわゆる「言葉狩り」について話をしましたが、少し補足し、また整理をしておきます。

新聞社、出版社、放送事業者は、今日では「言葉狩り」に遭わないために自主規制を強めています。その底流にあるのは、戦後民主主義的な価値観の中で、それが人権尊重や人道重視にかなう正義ででもあるかのような、内なる葛藤を避けた思い込みです。

言葉や表現を「圧殺」することで見えなくなってしまう人間や社会の真実があることを、私たちは常に問い直す必要があります。たとえば、いわゆる従軍慰安婦問題――。

わたしが〝いわゆる〟と付すのは、「従軍慰安婦」という言葉が戦後の造語であって、戦前の事実を正しく示す言葉であるかどうか、真摯に再検討されることのないまま「性奴隷」と同義のイメージで独り歩きをしていることに注意喚起したいからです。

これは、売春が合法であった時代の「娼婦」「売春婦」という言葉を遠ざけ、「従軍」と付けることで、商行為としての側面を意識的に見えなくさせています。現在の倫理観、価値観だけで歴史を括ってしまうことの危うさ。辛い境遇にあった女性たちに対する同情心はないのか、という非難が寄せられそうですが、そうした個人の心情の問題と混同してはならない。「娼婦」「売春婦」という言葉を遠ざけることで、見えなくなってしまう〝真実〟があるのです。

「良識」や「善意」を〝審判者〟として、言葉や表現を圧殺することが、一体どのような問題を惹起しうるか。以下は番組で語ったことですが、手塚治虫の『どろろ』を手掛かりに――。

戦国武将の醍醐景光は、天下獲りの野望と引き替えに48匹の魔神に、出産間近の我が子を生け贄とすることを約束する。やがて生まれてきた景光の子は、目も、鼻も、口も、両の手足もない〝塊〟だった。景光はさすがに戦(おのの)くものの、魔神が約束を果たすことを確信して、嘆き悲しむ妻の前で大笑いしてみせる。

景光の子は桶に入れられて川に捨てられるのですが、徳の高い医者に拾われ育てられます。感覚器官も手足もないその子にはしかし、素直な心があり、意思を伝えるテレパシーのような能力が備わっていました。成長するにつれ、木と焼き物とで入れ目や義手、義足をつくってもらい、見かけは普通の少年と変わらなくなり、やがて少年は、「百鬼丸」と名乗って、魔神、妖怪と戦い、自らの肉体を取り戻す旅に出る--。

『どろろ』は昭和40年代初めの作品です。妖怪漫画の傑作とされ、人間存在の暗闇を見据えた重さと、その暗闇の底を突き刺すような峻烈さに、発表当時小学生だった私はある種の恐怖を感じたものです。景光と百鬼丸のような親子関係があっていいものか。正直にいうなら百鬼丸の救いのない肉体的欠損に対しても、それを遠ざけたい、あるいは嫌悪する感情をずっと抱えながら読んでいました。

――と同時に、普通ではないものに強烈な違和感を覚えながら、そこに人間が持つ一様ではない真実の姿がある。目を逸らしてはならない実体がある。小学生には言葉で整理してみせることはできませんでしたが、子供心にもそんな感覚を持っていました。

さて、今日この作品を子供に読ませてみようと思う親が一体どれほどいるか。吉田浩氏が、『論座』(平成11年4月号)に書いた「言葉狩りと自主規制で〝おとぎの国〟が消えていく」という論文には「ええ、そこまで…」と驚かされたものです。

それによると、近年の幼稚園・保育所では、「白雪姫」「みにくいアヒルの子」「王子と乞食」「こぶとり」といった童話は言うに及ばず、遊びとしての「スイカ割り」は視覚障害者に対する差別と見なされ、「福笑い」は奇形をつくるとして自主規制、さらに「ひな祭り」や「鯉のぼり」も、身分差別や家父長制を助長すると抗議を受けるそうです。「桃太郎」の鬼退治もだめで、「王様ごっこ、お姫様ごっこ」も親からのクレームの対象になる。

子供の世界に上下関係を意識させるもの、醜いもの、残酷なことを持ち込ませない。平等で、綺麗で、仲良し、という明るい面しか見せてはいけないという何ともそら恐ろしい〝理想〟の追求がなされているような気がします。こうした過剰な配慮を子供に施そうとする大人たちにとって、『どろろ』などは焚書すべき悪書となってしまうのかも知れません。

実際には、子供の社会にも競争や上下関係はあり、醜さや残酷さとも無縁ではない。他人を差別したりいじめたりすることも、またその逆をされることも経験するはずです。かりに無菌培養のような教育をしても、現実社会との差異に気づいて、綺麗事ですべてを括ろうとするしたり顔の大人たちに嫌悪感を抱くのではないでしょうか。否、むしろそうあって欲しいと私なぞは思います。現実感覚のない子供たちが、そのまま大人になるのを想像することの方がむしろ寒気立つ。

これも番組で語りましたが、漫画少年であり、野球少年でもあった私は、『巨人の星』(原作・梶原一騎、作画・川崎のぼる)にも熱中しました。昭和41年から「週刊少年マガジン」(講談社)に連載され、さらにテレビ化されたことでスポーツ根性ものの一大ブームをつくった作品です。「飛雄馬」という変わった名前の主人公(原作者はヒューマン=humanから発想した)が、野球を通じて成長してゆく過程を通じて父子の葛藤、姉弟の情愛、希望と絶望、友情、闘いといった多様なドラマが描かれ、そこに多くの教訓が示されます。

忘れられない場面。飛雄馬は父の命令で上流子弟の通う私立高校に進学することになるのですが、その面接の席で父親の職業を尋ねられた彼は、巨人軍の栄光の三塁手だった過去を秘しつつ、昼夜兼行で働いて学費を準備してくれた、いまは病の床にいる父のことを胸を張ってこう言うのです。

「ぼくの父は、日本一の日雇い人夫です」

これを読んだ当時の少年の多くは、きっと涙を流したはずです。少なくとも、私は泣きました。何度も読み返して、その度に泣いた。飛雄馬の父が日雇い人夫だったことが悲しかったからではありません。それを堂々と言う飛雄馬の「貴」の精神に感動したからです。人間の尊厳や誇りのあり方に衝撃を受けたからです。面接者は飛雄馬の家庭環境をあらかじめ知っていて、蔑むためにわざわざ質問したのです。飛雄馬はそれに「日本一の日雇い人夫」と応じました。世の中に貧富の差はある。身分の上下もある。しかし、人間の貴賎は何で決まるのか。人間の本質的価値として何を貴ぶべきか。漫画ごときに大袈裟と苦笑されても構わないのですが、その基準が少年の胸にしかと刻まれた瞬間でした。

ところがこの場面、後年のテレビ再放送では音声がカットされ、漫画も復刻版では、「日雇い労働者」と言い換えられているのです。なぜ「人夫」ではなく「労働者」なのか。端的にいえば、〝人権に配慮した言葉の規制〟ということです。昭和40年代頃までは許されても、人権を尊ぶ、より進歩した今日では許容されない。

もっとも、それが作家、出版社によって自主的になされたものか、どこかから抗議を受けた結果なのかは詳らかに知りません。確かなのは、一つの言葉が消し去られ、別の言葉に置き換えられたという事実です。

「人夫」を辞書で引くと、「特技を持たず、荷運びなどの力仕事をする労働者」とあります。これの意味するどこが問題なのか。問題とすべきは「人夫」という職を指し示す言葉にあるのではなく、その言葉を投げ付けた面接者の蔑みの感情です。それを「労働者」と言い換えることは、現実をぼかして、少しでも綺麗事に装おうとするものでしかない。それでは、飛雄馬が闘ったものの実体が見えなくなってしまう。

飛雄馬の父が「日本一の日雇い人夫」ではだめで、「日本一の日雇い労働者」ならなぜいいのか。これこそ偽善的な取り繕いではないでしょうか。

これも名作とされる『カムイ外伝』(作・白土三平)にも、主人公のカムイが失明して村人にいじめられる場面で、同じ村の女がそれを庇って、「相手はめくらでねえか」というせりふが、「相手は目が不自由でねえか」と言い換えられています。カムイの時代には「自由」も「不自由」という言葉も日本に存在しません。言い換えることで一つの歴史的な実相を見えなくしているといえば、「狭義」の物言いにすぎるでしょうか。

そもそもすべて人間は異なる与件のもとに生まれてきます。個性も能力も均一ではありません。いつの時代の、どんな社会の、どんな肌色の人間に生まれてくるのかは選び取れないことです。人間はそうした宿命を背負って生きてゆく。それときちんと向き合う姿勢がなければ、その個人がいかに周囲から配慮され、大事にされようとも、人生を自ら尊厳あるものとして生きたことにはならないのではないでしょうか。

逆にこういうこともあるかも知れない。曽野綾子先生の『誰のために愛するか』(青春出版社、昭和45年刊)という本にこんな一文があります。

〈弱みをさらすことのよさは、弱点というものは、ひとに知られまいとしているからこそ、自分も不自由だし相手も困惑するのであって、それを、思い切ってさらしてしまったが最後、閉ざされていた場合に貯えられていた不毛のエネルギーのほとんどは雲散霧消してしまう。

 もし私がビッコであったら、そっとしてふれないでおいてくれる友だちより、

「おい、ビッコ。お前もこい」

 と言ってふつうに戦争ごっこに誘ってくれる友達を好くだろう。その際ビッコと呼ばれることは、いつのまにか蔑称ではなく愛称になっている。〉

ここで曽野さんが「ビッコ」という言葉を使っていることは責められる不見識、差別的態度でしょうか。私は、否だと思います。曽野さんはビッコを蔑んでいない。ここで「足の不自由な人」と表現することは、何かが嘘に、希薄に、別物になってしまう恐れがある。そうすることで、どこか人間が見えなくなってしまう恐れがある。それは人間が持つ崇高さであり、またその一方に内在する人間の心の暗闇が見えなくなる恐れです。

人間の心の暗闇…、それを感じるための手掛かりは言葉です。言葉を削り取ってはならない、と思います。差別の問題にしろ何にしろ、それをしてしまったら「綺麗事が大手を振る」ようになるだけで、往々、綺麗事は「悪意」を秘めているものです。

さて、引用した曽野綾子先生の文章ですが、後段はこう綴られています。

〈左右両翼の極端な思想、あるいは中庸であるだけで安全だと信じること、どちらも危ういのであろう。そのほかさまざまの精神主義的あるいは宗教団体から商業主義までさまざまなものが、私たちの心を安易に捉えようと網を張っている。

 それらから敢然と自立してあろうとすること。それは若い人たちに課せられた大きな任務だろう。人間は苦しみ、迷うべきものなのである。そうやすやすと救われたりするものではない。(略)

 戦争もなくすんでいる今、私たちが戦うべきは、自分の中にいる敵である。〉

綺麗事は、〈自分の中にいる敵〉を見えなくさせ、安易な救いの中で人間の本質を腐蝕させるものだと、私は思います。

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