前回に続いて『歴史の十字路に立って』の〈終章 人生という航海の終わりに〉の結びを――。

〈■若い世代はこの国についてほとんど何も「知らない」

 これからの日本を担う子供たちに我々がなすべきこと。それはこの国に対する愛着をいかに育てるかということにつきるはずだ。前に引いた、誰でもない自分の愛する者たちのためにこそ命を捨てに飛び立っていったうら若い特攻隊隊員たち、そして彼らに母と慕われ彼らを愛して見送った鳥濱トメさん、命がけで戦い生き残って戦後の日本のために大きな仕事を残した塚本氏のような先人について知らしめること、そして自分たちの間近な先祖、祖父や祖母、さらにその前の曾祖父さんや曾祖母さんたちが何を念じて何を望んでこの国を育ててきたかを知ること以外にありはしまい。

 平成十八年に教育基本法が改正される過程で、改正案に盛り込む「愛国心」の表記についてさまざまな論争が繰り広げられたものだったが、振り返れば、言葉に関する神経症的で愚劣な議論だったと言うよりない。喧々囂々(けんけんごうごう)の議論の末に与党案盛り込まれた「愛国心」にまつわる表現は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」とされたが、このような言葉遊びレベルでの論議に終始している愚かさになぜ多くの国会議員は気づかなかったのかと嘆息したものだ。

 かつて占領軍が一方的につくった教育基本法の改正は当然必要だったろうが、「愛国心」といった言葉を条文に盛り込めばそれで済む、といったものでは到底あり得まい。今の子供たちに何の脈絡もなく「愛国心を持て」と唱えることがいかに粗雑で短絡的であるかが、政治家のみならず多くの大人たちはわかっていないのではなかろうか。

「愛」という抽象的な言葉を、よりわかりやすく表現すれば「愛着」に他ならない。我々は家族や自分の住んでいる家や、使っているもの、あるいは自分の属する町、社会に対する「愛着」をそれぞれ抱きながら生きているのだ。そして当然みずからの属する国家社会そのものが「愛着」の対象になるべきなのだ。

 愛着なり、その逆の嫌悪なりの根底にあるものは、その対象への強い関心に他なるまい。関心の前提には認識がある。認識とは、とにかくもそれについて知るということだ。若い世代にこの日本への愛着が希薄なのは、この国についてほとんど何も「知らない」からではなかろうか。知らなければ、国に対する思い、好き嫌いなど持ちようもあるまい。

 太平洋戦争の撃墜王の坂井三郎さんからあるとき聞かされた象徴的な挿話がある。

 氏はある朝、中央線下りの電車の中で前に座った二人組の大学生の会話を耳にしたそうな。坂井さんの目の前で二人が、

「おい、おまえ知ってるか。五十年前に日本とアメリカは戦争したんだってよう」

「えーっ、嘘っ」

「バカ、本当だよ」

「マジかよ。で、どっちが勝ったの?」と。

 坂井さんはそれを聞いてショックを受け、次の駅で降りて心を落ち着かせるためホームの端でタバコを二本吸ったそうな。自分が命がけで戦った戦争を、もはやまったく知らぬ若者がいる。坂井さんの心中を察すると何とも痛ましいが、この悲痛で滑稽な挿話の証するものは、戦後の歴史教育における我々の怠慢以外の何ものでもない。

 歪んだ戦後の歴史教育を立て直すためにまず取り組むべきは、ただいたずらに、声高に愛国を唱えることではない。他人事ではない、自分と繋がる存在としての坂井さんや鳥濱トメさん、塚本幸一さんのような日本人のいたことを子供たちに伝えることなのだ。この国の歴史や同胞のことを知らないという者がいなくなれば、その先にはじめて子供たちはこの国を愛したり嫌ったりもすることが出来るはずだ。男と女の仲と同じで、会う前、知る前から「惚れろ」と言っても無理なことに違いあるまい。

 国家の歴史という同じ民族の事実の大きな堆積への入り口を示す意味で、子供たちに、身近な現代史や近代史を教え、今日ある社会の状況、結果や評価がどのようにもたらされたのか、その推移についての事実をしっかりと教え、まず関心を抱かせることが必要に違いない。ということで私は知事在任中、東京都の公立の中、高等学校で必須の科目として日本の近現代史を教えることに決め、そのための『江戸から東京へ』という教科書を識者に依頼してつくりだした。

 保守を称し、あるいは革新を標榜しようとも、とどのつまりこの国に愛着のない日本の政治家たちに、愛国心について語る資格などありはしまい。

 明治の先覚者福沢諭吉が説いた通り、まさに「立国は公にあらず、私なり」、そして「独立の心無き者国を思うこと深切ならず」なのだ。

 鳥濱トメさんがつくってくれたご飯を食べ特攻機で飛び立っていった二十歳前後の若者たちは、国家の存亡を前に、端的に言えばそれぞれの家族を守るために、祖国や家族への愛着を胸に抱きながら、崇高な私事としてその命を散らしていったのだ。

 国家と人との真の関わり方とはそういうものだ。これからの日本を担う子供たちに、それぞれ何か愛着を感じるものを胸に抱きながら生き抜いてもらうために、まず我々がなすべきことは、「愛国心」という言葉の字面にいたずらにこだわることではなく、それ以前に、この国を自らの関わりをしっかりと抱けるような歴史教育の仕組みを整えること、そしてまずこの国について知り、関心を抱かせること以外にありはしまい。

■「時代の鑿岩機(さくがんき)のモリ先として

 敗戦後七十年、アメリカの囲い者の身に甘んじてきた享受してきた「平和」、いわば「奴隷の平和」が培った平和の毒は、今日我々が世代や立場を超えて垂直に継承しなくてはならぬ価値観と理念を歪め損なってしまったと言わざるを得ない。

 白人の世界支配が終焉し、人間の歴史が大きく変化しようとしている今日、時間的空間的に狭小になりつつある世界の中での日本という国の立ち位置はかなり危ういものになりつつあると思うのは、はたして私の杞憂にすぎぬのだろうか。数十年後、この国はどこかの国の属国になりはてていまいかと思うのがただの杞憂であらんことを願って私は私なりの努力をしてはきたつもりだが、自ら顧みてその力の至らなかったことを慙愧(ざんき)せざるを得ない。

私は自分の人生を時代の鑿岩機のモリ先のようなものだと思ってきた。たとえば山脈に長いトンネルを掘って太平洋の風を山脈を突き抜けて日本海に送ろうとする時の一番目のドリルのような役目で、だからこの自分はトンネルの竣成式の華やかなテープカットの場にはいなくともいいのだと自覚していたが。

私は半世紀近く前の『孤独なる戴冠』に青年の使命ついてもこう書いたものだ。

〈現在の日本に、どのように共通の悲願や目標が、あり得るのか。あったとしても、我々はどうやってそれに我々自身らしく参加出来ると言うのか。

 誰が何と言おうと結局我々は、この幅広い前線の散兵壕に散らばって、焦りや寒さや寂しさの内に、その闘いを耐えなくてはならないのだ。(略)我々に残された、最も青年らしい行為とは、この孤独な、多分半永久的に援軍の到来しないかもしれぬ、灰色の闘いだけしかないのかもしれないがと。

 非人間的「人間」であろう。個性的現実を守ろう。へそ曲りと言われ、自我狂と言われ、我ままと言われ、厭(いや)な奴と言われ、たとえ悪人と言われても。好ましい、誰にも虫の好かれる人間に成ることは決してないのだ。その結果、一人きりになってもかまわない。そんな人生を甘受することが青年の青年たる所以ではなかろうかと。

 私が愛読したジイドはあの美しい情熱の書『地の糧』の中で言っていた。

『ナタナエルよ、君に情熱を教えよう。

 善悪を考えて行動してはならぬ。

平和な日々を送るよりは、悲痛な日を送ることだ。私は死の睡り以外の休息を願わない。(中略)私の心中で待ち望んでいたものを悉くこの世で表現した上で、満足して――或は全く絶望し切って死にたいものだ』と。〉

時は流れてこの国は大きく変貌したがその間、私に何が出来たというのだろうか。私は、いくつで死ぬか知らぬが間もなく死ぬのだろう。死ぬまでは言いたいことを言って、やりたいことをなんとかやりぬき、失望あるいは絶望の内に死にたいものだ。人から憎まれてもなお俺は俺なりに生き抜いてきたという己一人のささやかな自負と納得と満足さえあればいいのだが。

 私は私なりに片思いにこの国を愛してきたつもりだが、今この年にもなって政治から身を引き隠遁(いんとん)の中で愛したものの未来を想い、併せて過去を振り返る時、あのジロドゥが「オンディーヌ」の中に記した名台詞、『人生とは右舷に忘却を、左舷に虚無を眺めながらする船旅だ』を思い出さぬ訳にいかぬ心境だ。〉

――石原先生への批判、非難は長年様々になされてきました。それらに接して私が感じたのは、すべてとは云いませんが、きちんと石原愼太郎の文章を読んだのか、全体の文脈を把握した上なのか、と気色ばまざるを得ない批判者たちの粗雑さでした。彼らには「石原はけしからん」「反動だ」「差別主義者だ」等々、あらかじめの敵意、悪意があって、「石原の言動は受容すべきではない」と決めつけているのです。

なぜ石原愼太郎は一部の人々から忌み嫌われたか。戦後の欺瞞を打ち破って「日本再起」を体現しようとする存在だったからです。「平和の毒」に抗い続けたからです。

「片思いにこの国を愛し」、鑿岩機の役目を担ってきたその人が逝きました。衷心より御冥福を祈るととともに、後に続く一人でありたいと思っています。

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