〈戦後の日本人は、過ぐる大戦とそこに至る日本の近現代史について、いまだに自分の言葉で語り始めていない。〉(江藤淳)
「自分の言葉」ということに拘って書いてきました。原爆投下に関しても、今日の私たちは果たして「自分の言葉」で語り得ているでしょうか。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
これは広島市の原爆死没者慰霊碑の碑文です。碑文についてよく「主語がない」と云われますが、広島市の回答は次のようなものです。
〈碑文の趣旨は、原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。つまり、碑文の中の「過ち」とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています。
碑が完成した昭和27年(1952年)から今日まで、碑文は被爆者や広島市民だけではなく核兵器廃絶と世界平和実現を求める全世界の人々にとって祈りと誓いの原点であり続けています。〉(同市HP)
さらに、〈被害者である日本が「過ち」を犯したかのような文言となっており、改めるべきではないか〉という問いかけには、〈今日では、碑文に対する疑問の声はほとんど聞かれず、本市としては碑文の修正は全く考えておりません〉と回答しています(同)。
碑文に対する疑問の声はほとんど聞かれない、というのですが、実際はそうではないでしょう。そうでないからこそHPに回答を載せているわけで、広島市が「疑問の声」に斟酌しないだけではないかと私は思います。
さて、動物の鳴き真似師として、また俳優として活躍した三代目江戸家猫八さんを御存知でしょうか。テレビ時代劇「鬼平犯科帳」[主演・中村吉右衛門]で密偵の彦十を演じていた人と云えば思い出される方も多いでしょう。猫八さんは、昭和20(1945)年8月6日の広島への原爆投下に遭遇していました。
猫八さんは、召集され陸軍の船舶砲兵団(「暁部隊」)に所属し、北はアリューシャンから南はラバウルと戦地を巡り、当時は広島の宇品に駐屯していました。広島の中心地から離れていましたが、「ピカドン」の閃光は青空よりも明るく、猫八さんが咄嗟に防空壕に逃げ込もうとしたとき、「ドーン」という爆発音に続いて猛烈な爆風が襲ってきました。
猫八さんは公用兵で、比治山町にある船舶砲兵団司令部との連絡係が任務でした。上官から状況把握を命じられ、市内に向かった猫八さんは御幸橋まで来て愕然とします。そのときの光景は終生脳裏を離れなかったといいます。
瓦礫の山となった町。道々には焼け焦げて息絶え絶えの人々が親や子の名を呼びながら彷徨っている――。
猫八さんは上官に報告後、軍の救護隊の一員として再び市内に入ります。中心部に行くにつれ死傷者の数が増え、目も当てられない惨状です。
「兵隊さん、助けてください」
「水をください」
「熱い、痛い」
辛うじて生きている人々から痛みに耐える唸りや呻き、泣き声が洩れます。猫八さんは「耳を塞ぎたい気持ち」を堪え、懸命に救護に当たりました。猫八さんは被爆直後の市内でどれほどの放射線を浴びたのか…。戦後、原爆症と闘いながら人気芸人として再起した猫八さんは、このときの体験を『キノコ雲から這い出した猫』(平成7[1995]年、中央公論社)という本にまとめました。
実は、猫八さんが聞いた、被爆者が今際の際(いまわのきわ)に言い残した言葉は「助けてください」や「水をください」だけではありませんでした。
はっきり、「兵隊さん、きっとこの仇をとってください」という言葉があったのです。
猫八さんの回想だけでなく、こうした言葉は「広島原爆戦災誌」(広島平和記念資料館編纂)にも記されています。
たとえば、賀茂海軍衛生学校練習生隊の西家明男氏の証言。
〈(前略)長蛇の列の負傷者に対して、「少しの辛棒ですから待ってください。」と、われわれは励まし、元気をつけるようにつとめたが、無差別に虐殺したアメリカに対する憎しみと怒りの声は激しく、「何時かは、きっとこの復讐はしてやりますぞ。」とか、「兵隊さん、きっとこの仇を取ってください。」などと女も子供も興奮し、敵愾心に満ちて叫ぶのも当然のことに思われた。(中略)
「クソッ! アメリカの奴、おぼえておけ。」と、なかばやけっぱちの人、また、「アメリカは無茶をしますのう。」と、憎いがどうにもならんといったような、複雑な表情で話しかける人、「こんなことをされて、一生忘れァせんぞ。」と、負けても忘れないという意味にもとれる言葉など、内心勝利をあきらめたような言葉もあった。〉
当時の高野源進広島県知事は原爆投下の翌7日に「告諭」として次のように訴えました。
〈(前略)今次災害に際し不幸にも相当数の戦災死者を出せり、衷心より哀悼の意を表し、その冥福を祈ると共に其の仇敵に酬ゆる道は断乎驕敵を撃砕するにあるを銘記せよ、吾等はあくまでも最後の戦勝を信じ凡ゆる難苦を克服して大皇戦に挺身せむ。〉
原爆投下について、日本人が「自分の言葉」で語るのならば、まずは「仇をとってください」「仇敵に酬ゆる道は断乎驕敵を撃砕するにある」という、当時の日本人の〝憤怒〟を無かったことにしてはならない。
時間をかけてその感情を押し殺し、原爆投下を人類全体の過ちとして受け止め、二度と繰り返さぬと誓ったのが原爆死没者慰霊碑の碑文だとして、そこからこぼれ落ちる、あるいは溢れ出る父祖たちの怒りが厳然と存在したことを戦後の私たちは記憶にとどめる必要があります。原爆投下は天災ではありません。投下した「敵国」があり、その敵国が今日の我が国の最大の同盟国であるという現実をいかに受け止めるか。
広島市は、原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではないといますが、これは観念的なもので、現実に犠牲になったのは我が日本国と日本人です。また〈原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない〉というのは一方的な願望でしかなく、現行憲法の前文〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し〉たのと同じく、戦争と平和の間の葛藤を深く見つめた上で、自らの強い意志を刻んだ言葉とは到底思えません。
他国の善意や良識を前提にした偽善の態度、現実の困難を背負う覚悟のない者が「普遍的価値」「人類共通の理想」なるものを掲げて安逸を貪る態度です。「自分の言葉」を失った戦後の日本人の正体がこれです。
17世紀英国の政治思想家ホッブズは「戦争は人間にとって本性的なものである。自然のままに放っておけば必ず戦争状態になり、それがいつまでも続く」と語りました。誤解を恐れずに云えば、これが人類の生態であり、戦争と戦争の間の時間を平和と呼ぶのが歴史の常態で、自分たちの国とその大切な歴史を守るためには、他国の人々と観念的な理想論に頼っているわけにいかないのです。
「過ちは繰り返しませぬから」といくら誓っても、それは内なる安逸に過ぎない――。
退屈な話を長々続けるな、とお叱りを受けるかも知れませんが、私は、戦後の日本人がいかなる言語空間、認識の世界にいるか、その根本的な視座を「ライズ・アップ・ジャパン」を御視聴いただいている皆さんと共有したいのです。原爆死没者慰霊碑の碑文の話、もう少し続けます。どうかお付き合いください。
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