7月8日、評論家の竹村健一先生が多臓器不全のため89歳で亡くなられました。葬儀・告別式は近親者で行われ、報道各社の訃報は概ね11日でした。

竹村先生は昭和5(1930)年大阪市生まれ。京都大学英文科を卒業後、フルブライト留学生として米エール大、シラキュース大大学院に学び、帰国後「英文毎日」記者、その後、山陽特殊製鋼調査部長、追手門学院大学助教授を歴任しました。

昭和42(1967)年、カナダの文明批評家、マクルーハンのメディア論(『マクルーハンの世界』)を刊行して世の注目を集め、昭和54(1979)年から平成4(1992)年までフジテレビ系で放送された時事番組「竹村健一の世相を斬る」の司会を務めるなどテレビ、ラジオのトーク番組に精力的に出演、トレードマークのパイプを片手に関西弁で「だいたいやねぇ」と開口一番、歯に衣着せぬ言論を展開されました。「日本の常識は世界の非常識」など数々の流行語も生み出し、「電波怪獣」の異名もとりました。

私にとって思い出深い先生の一人です。東京内幸町の帝国ホテルに事務所を構えられ、よくインタビューに通ったものです。

昭和57年夏に起きたいわゆる教科書誤報事件――高校歴史教科書の文部省検定で、日中戦争における華北への「侵略」が「進出」に書き換えられた例があったという誤報で、これはマスコミ各社が、産経新聞(当時サンケイ新聞)も含めてほとんど横並びに報じました。それを発端に教科書検定制度そのものが日本と中国の間で大きな政治問題となった事件ですが――、当時それは誤報だと、「侵略」を「進出」に書き換えさせた事実はなかったとマスコミに認めさせる大きな切っ掛けをつくったのは「竹村健一の世相を斬る」でした。

この問題の経緯を調べていた渡部昇一先生が「誤報であることは間違いない」と竹村先生に伝え、「よし、ならば思い切って取り上げよう」となり、同年8月22日の放送で真相が伝えられたことで、翌9月7、8日付でサンケイだけが誤報を認めて読者に謝罪し、詳細な事実関係を記事にしました。

ちなみにこのとき、誤報ではないと〝談合〟して突っ張ろうとした文部省記者クラブから、それを破って事実を報道したサンケイは一時外されました。

平成12(2000)年、『正論』の編集者として「正論大賞受賞者から21世紀日本人への伝言」という企画を立てた私は、竹村先生(第5回受賞者)からもお話を伺いました。20年近く前になりますが、その内容は令和の今日でもまったく古びていません。

話の本旨は、「Web時代を制する気概と独創性」というものですが、その前提として「来る21世紀の日本人に何を伝えるべきか」について語られた部分をご紹介します。

〈まず世界史的な意味で、二十世紀の日本人が何をなし得たかを考えたい。私は〝実力〟によって白人優越主義を打ち破ったことがその第一であろうと思っている。日露戦争(一九〇四~〇五年)における勝利は、それまで劣等人種として差別され、搾取されつづけてきた有色人種に希望を与え、人種差別撤廃、植民地解放という歴史の歩みを決定づけたものといってよい。世界はその後、二度にわたって大戦争を経験するが、引き比べて日露戦争は、単に日本とロシアとの二国間戦争にすぎないという狭いとらえかたをしてはその本質を見失う。(略)

実際、当時のアジア、アフリカ地域の人々が、またロシアから圧迫を受けていた国の人々が、どれほどの歓喜をもって日本の勝利を受け止めたかを、今の日本人は知っておくべきである。身近な例をいえば、フィンランドの〝トーゴー・ビール〟が、日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した東郷平八郎元帥の偉業を称えたものであることをどれほどの日本人が知っているだろうか。

あるいはもう少し高踏的な例をあげれば、岡倉天心と親交があったことで知られ、東洋人として初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩人、ラビンドラナート・タゴールが、日露戦争に勝利した日本を称えてこんな詩をつくっている。

  海の岸辺夜は明けて 血の如き雲の曙に

  東の小鳥声高く 名誉の凱旋を歌ふ

さらにタゴールは、「日本はアジアのなかに希望をもたらした。われわれにはこの日出づる国に感謝を捧げるとともに、日本には果たしてもらうべき東洋の使命がある」とも語っている。インドをはじめアジア、アフリカ諸国の独立運動の志士が、自分たちも独立できるのではないかという希望を抱いたことは、その後のネルーやチャンドラ・ボースの言動に現れたとおりである。

さらに一九一九(大正八)年、前年に終結した第一次世界大戦の講和会議がパリで開かれ、日本政府は人種平等決議を国際連盟の規約に織り込むことを要求した。しかしながら、東洋人移民を排斥する白豪主義を掲げるオーストラリア首相ヒューズの強硬な反対に遭い、その要求は阻止された。当時の日本は曲がりなりにも〝五大国〟の一員となった機会にその決議を実現させ、米カリフォルニア州での日本移民排斥問題を何とかしたいという意図も持っていたのであるが、まだ時代の流れは人種の平等という観念を普遍化する分水嶺にまで達していなかった。

そうした流れの結果として日本は第二次大戦(大東亜戦争)を戦い、その敗北によって、日本は世界平和と人道に害をなす「侵略国家」という一方的な烙印を押されたわけだが、日本が唯々諾々といつまでもそれに従っていなければならない道理はない。第二次大戦における日本の行動を非難することは容易だが、植民地解放と白人優越主義の打破に向けて、いくつかの誤りや悲劇をともないつつも、日本が自らの犠牲によって大きく歴史の歯車を旋回させたことは、わが父祖の奮闘の物語としてもっと自覚されてよい。

日本がアメリカと戦わざるを得なくなった背後に、さまざまな謀略がはたらいていたこと、その可能性が決して小さくなかったことは記憶にとどめておくべきだろう。(略)

わが国の真珠湾攻撃はいまだに〝騙し討ち〟と非難されるが、ルーズベルト大統領が事前にその情報を得ながら、アメリカ国民を戦争に立ち上がらせるために、あえて怒りの炎を焚き付けるという世論操作をねらって防御策を講じなかったことは十分に考え得るのである。現にそうしたことを裏付ける形の資料も発見され始めている。

私がここで言いたいのは、戦争という行為をめぐって、日本人が一方的に、愚かなことをやったと後悔するのは自虐的であり、同時に偽善的で情緒的な満足にすぎないということだ。イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは、日本のある種の無謀さを批判しながらも、戦後、「日本は英米を一時的に打ち破り、植民地帝国を解体に追い込んだ。アジア諸国民のためになる働きをした」と評価した。日本人はそうした歴史の流れに大きな貢献を果たしたことに自信を持つべきなのである。

いま学校ではかつての日本を悪し様に罵り、卑下するような教育が過剰になされている。二十一世紀を生きる日本人にまず伝えたいことは、自虐的な視点で過去を振り返るのではなく、冷静で客観的な態度をもって歴史の教訓を導き出してほしいということである。〉(『日本の正論』産経新聞社、平成13年刊所収)

竹村先生は、私が『別冊正論』を創刊(平成18年1月)したとき、「軍拡中国との対決」という特集号を、「報道2001」(「世相を斬る」の後継番組。平成4~20年放送)の中で手に取り、「こういう本も読まなあかんよ」と〝応援〟してくださいました。忘れ難い思い出です。

竹村先生からはこんな話も伺いました。

「偉大な政治家は国民のいい部分を引き出す。凡庸な政治家は国民の悪い部分を引き出す。」

参議院選挙の投票間近です。指標になる言葉だと思います。

世界史的な意味で、二十世紀の日本人が何をなし得たか――これを起点に、あるべき日本の姿を語っている候補者はいるか。これなくして「国民のいい部分を引き出す」ことはできないでしょう。

竹村先生には、改めて積年の御厚情に感謝し、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

【上島嘉郎からのお知らせ】

●「勝野洋 古希記念舞台公演 HOTEL MONTBLANC(モント・ブランク)に〝役者〟として出演します。(7月24日~28日/会場・東京六本木「俳優座劇場」、出演は勝野洋、尾藤イサオ、壱城あずさ他)

[公式HP]

http://www.birdlandmusic.co.jp/hotel/index.html

[チケット申し込み]

http://www.birdlandmusic.co.jp/hotel/ticket.html

*Facebookをお使いの方は、直接メッセンジャーで私にご連絡くだされば手配させていただきます。

●拉致問題啓発演劇「めぐみへの誓い―奪還」映画化プロジェクトの御案内

●慰安婦問題、徴用工問題、日韓併合、竹島…日本人としてこれだけは知っておきたい。

『韓国には言うべきことをキッチリ言おう!』(ワニブックスPLUS新書)

●大東亜戦争は無謀な戦争だったのか。定説や既成概念とは異なる発想、視点から再考する。

『優位戦思考に学ぶ―大東亜戦争「失敗の本質」』(PHP研究所)

●日本文化チャンネル桜【Front Japan 桜】に出演しました。

・6月19日〈令和日本・再生計画~安倍内閣検証編~/令和に顧みる南洲翁遺訓〉