「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
――原爆死没者慰霊碑の碑文の話をもう少し続けます、と書いてから3か月半が経ってしまいました。
どうにも遅筆で、お詫びするほかありません。

原爆死没者慰霊碑の碑文は一体誰が考えたのか。
碑が建てられたのは被爆から7年後の昭和 27(1952)年夏でした。
同年4月 28 日にサンフランシスコ平和条約が発効し、連合国軍による日本占領は終わり、日本は独立を回復しました。
もっとも、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は米国の施政下にあり、本土復帰はだいぶ先のことですが。

さて、当時広島市の市長室主事だった藤本千万太氏が碑文の作成を依頼したのは広島大学の雑賀忠義(さいか・ただよし)教授でした。
〈はげ頭に骨張った顔の、ひょうひょうたる人物。「仙人」とも呼ばれた英語の名物教授〉(平成7[1995]年4月 16 日付『中国新聞』)で、〈難解な英文エッセーを陶然と読み、自ら訳して悦に入る。自
分の息子に「亜幌(アポロ)、飛龍(ヒリウス)」とギリシャ神話にちなむ名をつける異彩の人〉(同)だったそうです。

雑賀教授は、藤本氏に多くの英詩を見せた後、「『しずかにお眠り下さい 過ちは繰返しませんから』。こんなとこかな」とポツリと漏らし、それが推敲を経て今の碑文になりました(同)。

慰霊碑の完成から3カ月後、東京裁判で被告全員を無罪とする判決を書いたインドの国際法学者パール博士が「世界連邦アジア会議」で講演するため来日し、広島を訪れました。
その折、慰霊碑の碑文を訳されたパール博士は、何度も内容を確かめ、驚き、憤りを隠しませんでした。

「『過ちは繰返しませぬから』とあるのは日本人を指すのか。
原爆を落したのは日本人でないことは明瞭ではないか。
落とした者の責任の所在を明らかにして、『私は再びこの過ちは犯さぬ』というのなら肯ける。
またこの過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。
その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」

パール博士は概要このように述べ、さらに続けました。
「過ちを繰り返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常に立派な決意である。
それなら賛成だ。
しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか。
原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊も慰められない。」

パール博士は主語のない碑文を強く批判したわけですが、被占領下で原爆投下への恨みを公言できなかった被爆者らは博士の言葉に共感しました。
(ちなみに、GHQの民間情報教育局[CIE]は昭和 23[1948]年3月、局員に「広島と長崎の原爆は残虐行為である。そして、アメリカは償いの精神で広島復興に取りかかるべきである」と考えている日本人の態度に対抗措置をとることを指示します。
広島・長崎へのアメリカの原爆投下は正当で必要なものであったということを日本人に信じ込ませよ、ということです。)

雑賀教授はパール判事に反論しました。

〈「碑文は全人類の過去、現在、未来に通ずるヒロシマの市民感情を表した。
米国がどうのと、せせっこましい考えで霊前に向かったものではない」。
末尾には「至心(誠実な心)にて祈れ 平和の扉開かれん」と一句が添えられていた。〉(前掲『中国新聞』)

また、雑賀教授がパール博士に宛てた抗議文のなかに碑文の英訳があり、過ちを繰り返さない主体は「We」でした。
雑賀教授は昭和 32(1957)年、定年退官する際、『広大新聞』で「全世界よ、全人類よ、日本の方を向いて『右へ倣え』。碑文は全人類への号令である。こんなはっきりしたことが読み取れないのですか。頭が悪いですね」(同)と語り、その4年後死去しました。

碑文をめぐるもう一つの話を書きます。
令和になって、小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんの名をどれほどの日本人が記憶しているでしょうか。
小野田さんは昭和 19 年陸軍中野学校二俣分校を退校後(中野学校は軍歴を残さないので卒業では
なく退校といいます)、フィリピンに派遣されました。
遊撃戦指導のためルバング島に渡って以後、昭和 20 年8月の日本のポツダム宣言受諾後も任務解除の命令が届かなかったため島内に潜行して戦い続けた人物です。

昭和 49(1974)年、島内で日本人青年と遭遇し帰還を説得されますが、直属上官の命令がないことを理由に拒否。
その後、小野田さんの存在は日本国内で話題となり、かつての上官が現地に赴いて任務解除を伝えたことで 30 年ぶりに帰国しました。
平和主義を謳う戦後の日本が忌避し続けた「帝国軍人」小野田寛郎さんは、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。

その小野田さんが帰国後、かつての戦友たちと広島を訪れたことがあります。
以下はその旅に同行した戦友の方から直接聞いた話です。

小野田さんは、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という碑文を見て、「これはアメリカが書いたものか?」と困惑したそうです。
戦友が「いや、日本だ」と答えると、「ウラの意味があるのか? 負けるような戦争は二度としないというような……」と。

小野田さんの反応は、パール博士と同じです。
小野田さんは戦後ルバング島で戦い続け、GHQによる〝閉ざされた言語空間〟のなかにはいませんでした。
「碑文は全人類への号令」だとしても、また、過ちの主体が「We(全人類)」だとしても、原爆を投下した当のアメリカという国家が、その「We」に自分たちは含まれていないと考えているであろうことは今日でも間違いないでしょう。

一方の日本人はどうか。日本が悪かったから、広島が軍都だったから原爆を落とされた。当然の報いだ…と思わされたままではないか。
戦前の日本が悪かったから戦争が起き、その懲罰として無条件降伏した。そうした戦後の一方的な歴史観、戦勝国にとって都合のよい歴史観に小野田さんは強い違和感を持った。日本には戦わざるを得ない理由があり、戦ったこと自体を愧じる必要はない。「日本人よ、気概を取り戻せ」というのが、〝閉ざされた言語空間〟の影響下になかった小野田さんが終生持ち続けた信念だったと思います。

広島市に本照寺という日蓮宗の寺があります。住職の筧義章氏がパール博士に「過ちは繰返しませぬから」に代わる碑文を揮毫してくれるように懇願し、快諾した博士はベンガル語で碑文を書きました。
今日それは本照寺の境内に「大亜細亜悲願之碑」として建てられ、日本語の訳文はこう刻まれています。

「激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思いを抱いて 死んでいった しかし 大地深く打ちこまれた 悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓にいのち捧げた 魂の上に幸あれ
ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は 進む
一九五二年一一月五日
ラダビノード・パール」

反省であろうと、主張であろうと、私が最も意識するのは〈そこに自分の「言葉」はあるか〉ということです。そして、このとき「自分」というのは「人類」でも「地球市民」でもなく、「日本人として」の「自分」なのです。雑賀教授の訴える「全人類」の前に、日本人として戦前の日本との連続性を回復し、自らの言葉を取り戻さない限り、「全人類への号令」だと思っていることが一に自らを縛り、貶め続ける行為となりかねない、それに気づくことが不可欠です。

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