「ライズ・アップ・ジャパン」6月号が配信されました。質問コーナーで「富田メモ」に関するお尋ねをいただきました。「富田メモ」といっても覚えておられる方はどれほどいるか…。令和の時代に、天皇陛下の靖国神社御親拝について国民が心すべきことを考えるためにも、この一件を振り返っておきましょう。2回に分けてお送りします。

いったい「富田メモ」とは何か。日本経済新聞が平成18(2006)年7月20日付朝刊1面で、故富田朝彦元宮内庁長官のメモが発見され、そのなかで昭和天皇が、いわゆる〝A級戦犯〟の松岡洋右元外相らが靖国神社に合祀されたことに不快感を示していたと報じました。記事として公表されたメモの原文は以下のとおりです。

〈私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と

 松平は 平和に強い考(ママ)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

 だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ〉

富田氏は宮内庁次長時代を含め、昭和天皇との会話を手帳などに書きとめていたそうで、靖国発言のメモは昭和63(1988)年4月28日付(昭和天皇の誕生日前日)です。「松岡」「白取」というのは、日独伊三国同盟締結に関わり、敗戦後、東京裁判でA級戦犯として訴追された松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使の両氏を指し、「松平」は、最後の宮内大臣の松平慶民氏(故人)、「子」はその長男で、昭和53(1978)年にA級戦犯の合祀を決めた靖国神社の松平永芳宮司(同)のこと、「筑波」は昭和41(1966)年に厚生省から祭神名票を受け取りながら、在職中はA級戦犯を合祀しなかった筑波藤麿宮司(同)とされます。

松岡元外相は、東京裁判の審理が開始されて間がない昭和21(1946)年6月27日、白鳥元大使は終身刑を科されて服役中の昭和24(1949)年6月3日、いずれも巣鴨プリズンで病没しました。2人とも文官です。

靖国神社に合祀されたいわゆるA級戦犯は次の14名です。

東條英機(首相、陸軍大将、絞首刑)、板垣征四郎(陸軍大将、同)、

土肥原賢二(同)、松井石根(同)、木村兵太郎(同)、武藤章(陸軍中将、絞首刑)、広田弘毅(首相、同)、小磯国昭(首相、陸軍大将、服役中死亡)、白鳥敏夫(駐イタリア大使、同)、梅津美治郎(陸軍大将、同)、平沼騏一郎(首相、保釈直後死亡)、東郷茂徳(外相、服役中死亡)、松岡洋右(外相、拘禁中死亡)、永野修身(海相、海軍大将、同)

富田メモに名が挙げられたのは、このうち松岡、白鳥の両氏だけです。国際連盟からの脱退と日独伊三国同盟締結に反対されていた昭和天皇ですから、松岡、白鳥の合祀に不快感を抱かれたことはあり得ます。『昭和天皇独白録』(文藝春秋)でも、昭和天皇が松岡元外相を評価していなかったことが記されています。

一方で、昭和天皇は東條英機に対する信頼と同情のお気持をお隠しになっておらず、合祀されたA級戦犯のなかには、天皇の御意向に沿って日米戦の開戦回避に努め、終戦実現にも積極的であった東郷茂徳元外相も含まれていることなどを勘案すれば、昭和天皇が14名を一括りにして、その合祀に不快感を抱かれたとは思えません。

日経新聞は、「A級戦犯 靖国合祀 昭和天皇が不快感」との見出しを付しましたが、わずか120字ほどのメモからそう結論づけるのは大いに無理があります。

さらに当時問題だったのは、このメモが真贋や史料価値の検討がなされる前に「政治利用」されたことにあります。時の内閣総理大臣は小泉純一郎氏で、「8月15日に靖国参拝する」との公約を掲げて自民党総裁選に勝利し、首相として政権を担っていました。その「8月15日」という公約を過去3年間果たし得ないまま迎えた任期末に、「富田メモ」が〝発見〟されたというわけです。

同年9月の自民党総裁選に向け、政界の一部にはA級戦犯を分祀しようという動きがあり、マスメディアの多くが首相の靖国参拝に批判的で、反対の論陣を張っていました。

政治家の発言を摘記してみましょう。

「A級戦犯分祀が実現するか、国立追悼施設を設置しない限り、靖国問題は解決しない。天皇陛下も参拝されない宗教施設が国の中心的な追悼施設とは言えない。」(山崎拓氏)

「分祀論に弾みがつく。戦地に赴いた人は陛下のご参拝をいただきたいという思いで亡くなられた方が多い。陛下が行かれる状況をつくることは非常に重要だ。」(加藤紘一氏)

「昭和天皇が参拝されなくなったのはA級戦犯合祀であることが裏付けられた。分祀論が加速するだろう。」(神崎武法氏=当時公明党代表)

「戦争に後悔の念を持っておられた陛下の意思だけに大事にすべきだ。首相は重く受け止めてほしい。」(鳩山由紀夫氏=当時民主党幹事長)

新聞各紙はどう論じたか。当の日経はこうです。

〈昭和天皇が靖国参拝を見送った経緯については、かねてA級戦犯合祀に不快感を抱いていたとの宮内庁関係者の証言が伝えられていたが、靖国参拝擁護派はこうした見方を強く否定し、「三木武夫元首相が七五年に私人の立場を明確にして参拝したため、天皇が参拝しにくくなった」と主張していた。〉

〈「富田メモ」によって昭和天皇の意向が明確になり、天皇が参拝しない理由を三木元首相のせいにした主張の論拠はほぼ崩れ去ったと言ってよい。〉

さらに、〈靖国参拝問題は小泉首相が言うように「心の問題」で単純に片づけられるものではない。昭和天皇の「心」の歴史的背景を重く受け止め、小泉首相はじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい。〉

これは明確に首相の靖国参拝中止を求めるものですね。

朝日新聞は、〈A級戦犯の合祀に対し、昭和天皇がかねて不快感を示していたことは側近らの証言でわかっていた〉とし、〈こうした主張にはもともと無理があったが、今回わかった昭和天皇の発言は、議論に決着をつけるものだ〉と述べました。

朝日が「側近」といっているのは、徳川義寛元侍従長のことで、朝日は生前の徳川元侍従長の証言をもとに、平成13年8月15日付で「A級戦犯合祀で天皇参拝は途絶えた」と報じています。

読売も日経、朝日と大差なく、〈昭和天皇が参拝されない理由は「A級戦犯合祀」なのか、「公人・私人」の政治問題を避けるためなのか。二説があったが、憶測の域を出なかった。メモの発見により、一つの区切りがついた〉として、〈靖国神社には、宗教法人としての自由な宗教活動を認める。他方で、国立追悼施設の建立、あるいは千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充〉などを考える、〈「靖国問題」の解決には、そうした選択肢しかないのではないか〉と述べました。

富田メモの政治利用に警鐘を鳴らしたのは産経新聞のみで、事実上、マスメディアには「反靖国」の翼賛体制が出来上がっていました。この状況は令和の現在もほとんど変っていません。

配信中の拙番組でも触れましたが、『週刊新潮』(平成18年8月10日号)が、「『昭和天皇』富田メモは『世紀の大誤報』か『徳川侍従長の発言』とそっくりだった!」という記事を載せ、こうした新聞報道の権威に疑問符をつけました。

〈新聞でメモを見た時は、父の言っていたのと同じだなあ、と思いました〉という徳川元侍従長の長男のこんな発言をリードにした記事は概略、昭和天皇はA級戦犯木戸幸一や東條英機に対して温かい目を向けられていた。彼らを指すのにA級戦犯という言葉を使われたとは考え難い、陛下自身が謙譲語である〝参拝〟という言葉を使うのはおかしいなどの証言を紹介し、徳川元侍従長が生前、唯一、生の言葉として残した『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』の中に書かれたA級戦犯合祀などに関する〈〝生の声〟は、富田メモの内容にそっくりなのである〉というものです。

つまり、「富田メモ」の内容は、昭和天皇の身近にいた者にとっては、〝私的な御心情〟としてすでに知られていたことで、目新しいものではないということです。にもかかわらず新聞各紙が大仰に報じたのは、小泉首相の8月15日の靖国参拝を阻止する狙いがあったとしか思えません。

石原慎太郎都知事(当時)が同年8月4日の定例会見で、富田メモについて「この段階で一部のメディアが取得していて政治的なタイミングで発表するのはおかしい。今、国内外で政治的に使うのは間違いだ。フェアじゃない」と批判したのも、そのへんの疑念がよぎったからでしょう。

当の小泉首相は、「陛下におかれてもさまざまな思いがおありだったのだろう。あの人が、あの方が言われたからいいとか悪いとかという問題ではない。A級戦犯分祀は一宗教法人に政府が言わない方がいい」と取り合わず、首相在任最後の8月15日、報道各社の注視のなか、靖国神社に参拝しました。(つづく)

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