いわゆるA級戦犯が靖国神社に合祀された経緯は次のとおりです。
昭和27(1952)年、遺族援護法が施行され、翌年8月の国会で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択されました。戦犯刑死者や獄死者を「法務死」と認定し、援護法も改正され、政府は関係各国の同意を得て、死刑を免れたA級戦犯やアジア各地の裁判で裁かれたBC級戦犯を釈放しました。それに伴い、刑死・獄死者の遺族に年金が支給されるようになりました。
戦犯とされた刑死・獄死者は、旧厚生省から靖国神社へ送られる祭神名票に加えられ、これに基づいて「昭和殉難者」として同神社に合祀されることになったわけです。戦後の独立回復と復興に重ね合わせた国民の意志が働いていたという事実は重いと思います。
昭和50(1975)年11月以降、昭和天皇の靖国神社御親拝はありません。それはA級戦犯合祀が明らかになる前からですが、富田メモが、御親拝中断の理由を「A級戦犯の合祀に不満だったから」と結論付ける〝証拠〟と大きく報道されたことは〈その一〉で触れたとおりです。
当時、富田メモの信憑性に疑問を呈した一人が渡部昇一先生でした。渡部先生がどのように見ていたか。私が直接伺った話を、先生の一人称のかたちで以下にお伝えします。
《富田メモの信憑性を考えるとき、私はトレヴァ=ローパー卿のことを思い出します。卿は、オックスフォード大学の近代欽定講座教授という近代史の権威でした。この欽定教授(リージャス・プロフェッサー)の席は、フリーマンやフルードのような巨大な名前の前任者を持つ名誉と権威のあるポストです。
ところが、トレヴァ=ローパー卿は、ヒトラーの日記の真贋鑑定で大きなミステイクを犯しました。筆跡や書かれている内容からみて、「ヒトラーの日記に間違いがない」と鑑定したのですが、のちに鑑定の専門家が検討したところ、日記の背の糊は、ヒトラーの時代にはまだ存在しないことが証明されたのです。これは文書の鑑定には、さまざまな専門家が必要であるという一例です。
日経新聞はその後、社外有識者を中心に構成した「富田メモ研究委員会」をつくって、平成19(2007)年4月30日に最終報告をまとめ、翌5月1日から数回にわたって検証記事を掲載しました。
〈A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認――富田メモ委検証報告〉と題された記事の内容を端的に述べれば、同委員会は平成18年10月から、計11回の会合を重ねてメモ全体を検証し、「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価、とくにA級戦犯靖国合祀に不快感を示した昭和天皇の発言については、「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達したというものでした。
このとき公表された研究委員会の委員は、御厨貴氏(東大教授)、秦郁彦氏(現代史家)、保阪正康氏(ノンフィクション作家)、熊田淳美氏(元国立国会図書館副館長)、安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)の5氏で、いずれもメモは本物で、きわめて史料的価値が高いとの判断でした。
日経の検証記事はさらに、「精査したところ、『明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る』などと昭和天皇の靖国への思いを記した新たな走り書きが見つかった」とし、その日付は1988(昭和63)年5月20日で、昭和天皇が「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた同年4月28日から約3週間後としました。
同委員会は、その走り書きなどを根拠に「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と解釈し、「今回の一連の報道で富田メモの検証作業を終了、メモは富田家が公的機関への寄託などを検討する」と述べて散会しました。
基本的なことを言えば、文書の真贋を定めるにはいくつかの手続きがあり、富田メモを例にとって言えば、大体次のようになります。
第一に、外的証拠(エクスターナル・エビデンス)に関することです。まずその手帳はどこから誰の手に渡り、誰によってあのページが報道されたのか。手帳に貼られた糊はいつ頃、どの会社製のものであるのか。貼られた紙のインクはそのページの手帳のインクと同じであるのか。もし違うのならば、貼られた紙のインクと同じインクで書かれている手帳のページの日付はいつ頃のものなのか、などなど。
第二に、内的証拠(インターナル・エビデンス)です。あのメモの発言者が昭和天皇であることを示す言葉がついているのか否か。その紙や手帳の前後の全記述はどうなっているのか。そのメモの内容が昭和天皇のそれ以外の発言と整合性はあるのか。ないとすれば、その不整合性をどう説明するのか。富田氏の手帳のその他の部分の信用性はどうなのか。富田氏自身のメモの信憑性は他のページでも証明されるのか。昭和天皇の言葉遣いが反映されているのか、などなどです。
富田メモ研究会の最終報告がこのような文書鑑定の手続きを経てなされたものかどうか、報告書にはまったく説明がありませんでした。恐らくやらなかったでしょう。
日経の杉田亮毅社長が〝スクープ〟前の4月13日に中国の唐家璇国務委員と会談していたことを何も報じなかったことがいろいろな憶測を呼びましたが、日経が富田メモを手に入れたのが本当に平成18年5月だというのなら、記事として発表するまでの約3カ月の間にどのような確認作業を行ったのかを、第一報の段階で詳らかにすべきでした。
あるいは、国がその責任において富田氏の手帳と、あのページの出現のプロセスを究明すべきでした。悪質な皇室利用で世論や政治を動かそうとする人間やマスコミが出ないようにするのは政治の義務です。》
「富田メモ」は、いまに至るもメモ全体の公刊や一般への公開はされていません。真贋をめぐる疑念は完全には拭えないのです。
昭和天皇の戦後の靖国神社御親拝は8度を数えますが、けっして静謐な環境ばかりではありませんでした。昭和44(1969)年から49(1974)年まで靖国神社の国家護持の論議が国会で紛糾し、国論が深刻なかたちで二分されることへの御懸念を昭和天皇が抱かれたことは十分に考えられます。
富田メモで釈然としないのは時期の問題もあります。昭和天皇の御発言が記録されたのがA級戦犯の合祀から10年も経った昭和63年というのは時期がずれすぎてはいないか。しかも時の総理大臣が靖国参拝を続ける最中、というのは……。
平成19(2007)年4月、故卜部亮吾元侍従の日記が公開され、富田メモの裏付けとなる長官と卜部氏の拝謁の記録や「合祀が(昭和天皇の)御意に召さず」などの記述があることがわかり、日経、朝日、毎日、読売など主要紙は「A級戦犯合祀が直接の原因で天皇は靖国神社参拝を取りやめたという富田メモの事実があらためて確認された」と報じ、前年の富田メモ報道に続き、マスメディアの世界ではこれが〝定説〟となりました。
しかし、マスメディアの〝定説〟イコール〝真実〟と言えないのは枚挙に遑(いとま)がないことです。
かりに昭和天皇が松岡洋右、白鳥敏夫の靖国神社への合祀に御不快だったとして、それがA級戦犯全体に及ぶものかどうか、またそれによって御親拝を中断されたとするのは、重ねていいますが、推察の範囲であって、確たるものとは言えません。
さらに言えば、マスメディアと一部の政治家の問題は、昭和天皇の「立憲君主としての公的な立場での御発言」と「身内に対する私的な御発言」とをあえて区別しないで、A級戦犯分祀の是非論や、首相の参拝をめぐる是非論など、靖国をめぐる諸問題の結論を一定の方向に持っていこうと安易に結びつけたことです。天皇の公私の御発言を混同してはならず、立憲主義を崩壊させるものと言わざるを得ません。
昭和天皇の靖国神社御親拝が昭和50年11月を最後に途絶えたことは先に述べたとおりです。その理由は、「富田メモ」にあるように、A級戦犯合祀に御不快だったからなのか――。
私の考えはこうです。
戦後、吉田茂や岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄といった歴代首相は靖国神社を当然のごとく参拝していました。いわゆるA級戦犯の合祀はされていません。昭和50年8月15日、時の首相三木武夫が靖国神社に参拝しました。前年、自民党は靖国神社の国家護持法案を初めて提出しましたが、成立させることはできませんでした。そうした情勢下、現職首相の参拝が強く求められました。
三木首相は、日本武道館での全国戦没者慰霊式を終えて靖国神社に参拝したのですが、総理大臣の専用車ではなく自民党総裁車に乗り換え、玉串料は「ポケットマネー」、記帳も一切の肩書を付さず「三木武夫」とだけ記しました。
三木首相が自らの参拝を「私的なもの」としたことで、以後、要人の靖国参拝に対し、「公的か私的か」の不毛な議論が沸き起こり、その種の質問がメディアから発せられることになったわけです。
国会(参議院内閣委員会)でも、旧社会党の秦豊、野田哲両氏が翌日に予定されていた昭和天皇の靖国参拝の法的性格を質しました。植木光教・総理府総務長官(当時)は「宮内庁に公的か私的かを問い合わせたところ、私的なものと聞いたので妥当だと承知した」と答えたのですが、社会党と共産党はこの答弁に納得せず、昭和天皇の靖国神社参拝に反対する談話を発表し、旧総評など7団体もこれに同調して反対集会を開きました。
そうした政治的な状況をも顧慮され、昭和天皇は靖国への御親拝が政治的紛争の的になることを懸念されたのではないか。のちに一部の〝戦犯〟に不快感を持たれたことが加味されたとしても、そうした〝内なる御心情〟はともかく、天皇の靖国参拝が政治問題化することを避けるために自粛されたのではないかというのが私の受け止め方です。もし心底からA級戦犯の合祀が御不快で許しがたいとお考えならば、なぜ御親拝に代わる勅使の差遣は続けられたのか。
昭和天皇の靖国神社に対する思い、公的な立場でのお考えは、昭和50年11月の御親拝以降も絶えることなく続けてこられた春秋例大祭への勅使御差遣によって明らかではないでしょうか。それは上皇陛下に引き継がれ、今上天皇の令和の時代に御親拝がかなうかどうかは、政治的な紛争として干渉されない静謐な環境を取り戻すことができるかどうか、日本国民の意志と努力にかかっています。
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