「ライズ・アップ・ジャパン」「大東亜戦争の研究」を御視聴いただいている皆さん、寒中お見舞い申し上げます。インフルエンザが全国的に流行していますね。どうかお気をつけください。

さて、「ライズ・アップ・ジャパン」に、「真岡郵便局の話以外で、終戦前後に繰り広げられたロシアの悪逆非道などがあれば教えていただけないでしょうか? 同胞の歴史として胸に刻んでおきたいと思います」との質問をお寄せいただきました。

1月22日、安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領はモスクワのクレムリンで25回目となる会談をし、平和条約の締結に向け交渉を前進させることを確認したと共同で発表しました。

プーチン大統領は、〈「会談は非常に建設的だった」と述べ、平和条約については「締結を目指す」と明言。領土問題などについて「解決は可能だ」と強調〉(1月23日付『産経新聞』)しましたが、氏の考える「解決」と日本側が望む「解決」との深い溝は容易に埋まらないでしょう。

私は、歴史の事実を棚上げして、日本側が前のめりになることを厳に戒めたいと思います。

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「ロシアの国柄─72年前の教訓」(『「新」経世済民新聞』2017年8月25日配信)

「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」

これは平成7(1995)年8月、時の村山富市首相が出した「戦後50年談話」の一節で、日本政府の公式見解としてその後の内閣にも継承されています。これを是として私たちが反省を続けるにしても、では、当時の日本は一切、他国から侵されず、多大の損害と苦痛を与えられることはなかったのか。周囲は平和を愛する諸国民ばかりなのに、日本が一方的にそれを撃ち破って世界に損害と苦痛を与えたのか。

戦後の日本人は、自らを「加害」の立場に置くことしか許されていないのか。当時の日本がどれほどの理不尽や暴力に耐えねばならなかったか。その一端を語ることすら戦後の言語・情報空間では禁じられた時代があり、いつしか私たちは「被害」の事実を忘れさせられ、無かったことにされてしまったのではないか。

以下、冒頭の御質問に応える話を一つ。

昭和21(1946)年6月21日、新京(旧満洲国の首都=現中国吉林省の長春)にあった第八陸軍病院の看護婦22名が集団自決をしました。ポツダム宣言の受諾から10カ月も経っているのになぜ……。

これは、ソ連軍の非道な要求への死を以てする〝抗議〟でした。

この集団自決の真相は、同病院の看護婦長だった堀喜身子さんが昭和27(1952)年(日本の独立回復後!)、『サンデー毎日』(8月31日号)に手記を綴って明らかにしました。抜粋します。

〈ソ連に占領された死の街のような長春、日本の女の人たちは、これまでのように女の服装をしているわけにはいきません。(略)身上調査がはじまると、私たちは看護婦であることが判ったものですから、三十四名の看護婦は長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。(略)翌二十一年の春でした。突如、城子溝にあるソ連陸軍病院の第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援によこせと命令をうけたのです。(略)〉

その後もソ連から度々看護婦の追加命令が来たので、堀婦長らは変に思いながらも要求に応じ、次々と3名ずつ派遣しました。残りが婦長のほか22名になったとき、さらに新たな命令が来ました。

〈人選を終えて、憂鬱な心を抱いて、八時過ぎに病院を出ようとした時でした。何気なく入口の回転ドアを手で押して出ようとした時、なにかドサリと私の胸にたおれかかって来ました。(略)

第一回に派遣した大島はなえ看護婦なのです。(略)私は思わず、その人の上にかがみこんで顔を近づけてみました。傷だらけの顔は蒼白で、体中いたるところに十一カ所も盲貫銃創と盲通銃創をうけています。何はともあれ大急ぎで助けを求めて病室にかつぎこんで手当をしましたが、もう脈搏にも結帯があり、危険は刻々に迫っています。しかし聞くだけのことは聞かねばなりませんので、大島さんをゆすぶっては、起し起してきいてみますと、あわれなこの看護婦は、私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。

「私たちは、ソ連の病院に看護婦にたのまれて行ったはずですのに、あちらで看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校のなぐさみものにされているのです。最初行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代る代るやって来て、私たちをいい慰みものにするのです。否といえば、殺されてしまうのです。私も殺される位はかまいませんが、つぎつぎ同僚の人たちが、ここから応援を名目に、やって来るのを見て、何とかして知らせなければ、死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで、脱走して来たのです」〉

〈その話にただ暗澹と息をのみ、はげしい憤りに身内がふるえて来るのを禁ずることが出来ません。脱走した時、うしろから射たれたのでしょう、十一発の銃創の外に、背中に鉄条網の下をくぐって来たかすり傷が十数箇所、血をふいて、みみずばれにはれています。(略)身を挺してもつぎの犠牲者を出したくないと、決死の覚悟でのがれて来たこの看護婦の話に、私の涙は噴水のようにあとからあとから噴き出して来ました。

 国が敗れたとしても、個人の尊厳は侵すことはできないのではないでしょうか。それをわずか七日間の参戦で勝ったというだけで、神聖な女性を犯すとは何事と、血の出るような叫びを、可憐な二十二歳の生命が消えて行こうとする臨終の床に、魂をさく思いで叫んだのでした。

「婦長さん! もうあとから人を送ってはいけません。お願いします」という言葉を最後に、その夜十時十五分、がっくりと息をひきとりました。泣いても泣いても涙がとまりませんでした。翌日曜日午後、満州のしきたりにならって、土葬をして、手あつくほうむりました。髪の毛と爪をお骨代りに箱におさめて、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置し、花を供え、水を上げて、その夜は、一同おそくまで、たしか十二時ごろまでも思い出話に花をさかせたのでした。(略)〉

そしてその翌日。病院の開院時間になっても一人の看護婦も出てきません。堀婦長は「もしや」と思い、看護婦室に向かいました。

〈入口の障子はピシッとしまっていますが、入口には一同の靴がきちんとそろえてあります。障子をあけると、大きな屏風がさかさまに立ててあります。中からプンと線香のにおいがしました。(略)

二十二人の看護婦がズラリと二列に並んでねむっています。しかも満赤看護婦の制服制帽姿で、めいめい胸のあたりで両手を合わせて合掌をしているではありませんか。脚は紐できちんとしばってあります。(略)

腰をぬかしてあたりをみまわすと、しーんとした死の部屋で、どの顔も、極めて平和な、しかも美しい顔をして、制服制帽こそ長い間の従軍に、つぎが当り色はあせてはいますが、折目も正しく、きちんと着ています。

二列になった床の中央には、机をもち出し、その上に昨日各自の手でおとむらいをした大島はなえさんの遺髪の箱を飾り、お線香と水とが供えられてあります。(略)〉

「遺書」が机上にあり、〈二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。〉と綴られ、全員の名前がそれぞれの手で記されてありました。

私は、単純に反露感情を煽りたいわけではありません。戦後の日本人があまりにも「我らが父祖」の歴史を忘れていること、知らないこと、蔑ろにして顧みないことに落涙を禁じ得ないものです。

この22名の若き看護婦の思いを汲まずしてどうするのか。

ロシアとの間に平和条約を結ぶとすれば、そのとき交渉の要諦ははっきりしています。今日の私たちの経済的利益や安穏のみを優先させて事を運んではならない。

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